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今回は全問、 「酔古堂剣掃」(すいこどうけんすい)からの出題です。
「酔古堂剣掃」:「中国・明朝末の教養人・陸紹珩(字は湘客)が長年愛読した儒仏道の古典の中から会心の名言嘉句を抜粋し、収録した読書録である。特徴としては、『菜根譚』と同様に自然の描写と観察が豊富で優れている。日本には江戸時代に紹介されて教養人の間に広く流布し、明治・大正に至っても何度か訳されたりしたが、昭和に入ってからは殆ど出版されなくなった。」(ウィキペデイア)との事。
(よみ)
①(花棚)石磴(せきとう)、小座微醺。歌は独なるを欲し、尤も細さいなるを欲す。茗(めい)は頻なるを欲し、尤も苦きを欲す。
②恩は多寡を論ぜず、当厄的壺漿(こしょう)も、死力の酬(むく)ひを得ん。怨は浅深に在らず、傷心的(杯羹)も、亡国の禍を招く。
③良心は夜気清明の候に在り、真情は箪食(豆羹)の間に在り。 故に我を以て人に索むるは、人をして自反せしむるに如しかず。我を以て人を攻むるは、人をして自ら露あらはさしむるに如しかず。
④侠(きょう)の一字、昔は之を以て意気に加へ、今は之を以て(揮霍)に加ふ。只だ気魄気骨の分に在るのみ。
⑤一念の善、吉神(きっしん)之に随ひ、一念の悪、(鬼)之に随ふ。此れを知らば以て鬼神を役使す可し。
(かき)
①(キョクリョウ)寛大なれば、即ち三家村裡に住むも、光景拘せず。智識ちしき卑微ひびなれば、縦ひ五都市中に居るも、神情亦た促す。(注)「キョクリョウ」は、度量、襟度の意味。
②(ダツエイ)の才、嚢(ふくろ)に処(お)りて後に見(あらは)れ、絶塵(ぜつじん)の足、塊を歴へて以て方まさに知る。
③憂疑は杯底の(キュウダ)、双眉且つ展(の)ぶ。得失は夢中の蕉鹿、両脚且つ忙し。
④能く善言を受くること、市人の利を求むるが如く、寸積(シュルイ)せば、自ずから富翁と成らん。(注)(シュルイ):少しずつ重ねていくこと。 「シュ」は重さの単位でわずかな量。
⑤士君子にして人を(トウヨウ)する能はざるは、畢竟、学問中、工力(こうりょく)未だ透(とほ)らざるなり。 (注)「トウヨウ」:型に入れて溶かし込む。転じて人を感化させること。
回答・解説はこのあとすぐ(^^)
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<回答・解説>
(よみ問題)
①(かほう):花咲き誇る石の坂、少しく座りて少しく酔う。歌えば独り高らかに、心情最も細やかに。茶は頻りに勧めて皆と楽しみ、深味最も苦きを欲す。 石磴:石段。石のある坂道。茗:茶の芽。茶。新芽が茶で、おそく摘んだものを茗という。余談ですが、鹿児島には花棚(けだな)という変わった地名があります。また、苗字(名字)では花棚(はなたな、はなだな)さんと読むらしいです。
②(はいこう):恩の多い寡(すくな)いは問題ではない。困窮したときに施すわずかな飲料も、死力を尽した報いを得ることがある。怨みの浅い深いは関係ない。一杯の羹(あつもの)で気分を害したに過ぎずとも、時に亡国の禍を招く。
③(とうこう):人の良心は夜の物静かな頃にあらわれ、人の真情はわずかな食べ物の間にもあらわれる。
故に我を以てその良心に気付かせることは、その人自身が省みることに遠く及ばない。 我を以てその情の動きを責めることは、その人自身が吐露して気付くことに遠く及ばない。箪食(たんし):竹で編んだ器に盛られた食料。豆羹(とうこう):豆のあつもの。ほんのわずかな量の羹(あつもの)。
④(きかく):侠の一字、昔はこれを意気に加え、今はこれを外面に加える。本当はただ、気魄気骨がどれだけあるかなのだ。侠は任侠の侠。本来は単なる無頼の徒ではなく、こころよいものを侠というらしい。形を真似しただけの中身が無い者や、勢いがあるだけの者には用いない。揮霍(きかく):勢いよく激しく動かすこと。勢いが激しい様。金品をむだづかいすること。揮は手を動かす意、霍は飛ぶ音をいい、はやい意がある。揮:小学…キ 準1…ふる(う)霍:カク、にわ(か)、はや(い)
⑤(れいき):善を尽せば善神これに従い、悪を尽せば悪神これに従う。これを知らば以て鬼神を使役するが如きなり。吉神(きっしん):善神。めでたい神。鬼(れいき):疫病神。悪神。悪しき神。:レイ、といし、と(ぐ)、するど(い)、はげ(しい)、はげ(む)、しいた(げる)、えやみ、や(む)、わざわ(い)*「」の訓読み、意味、熟語はたくさんあるので要注意ですね。<熟語例>「疫(レイエキ)」、「階(レイカイ)」、「鬼(レイキ)」、「疾(レイシツ)」、「色(レイショク)」、「風(レイフウ)」、「民(レイミン)」・・・
(かき問題)
①(局量):人物偉大なれば、三軒足らずの小村に住むとも、その境遇に束縛されず。形ばかりの矮小なれば、大都市に居るとも、心情迫りて安からず。「局量」は広辞苑にも所載あり。
②(脱穎):英傑の本質はこれを懐(ふところ)に入れて初めて現れ、超脱の趣は己の足らざるを察して初めて知る。「脱穎」の才は史記・平原君にある「嚢中の錐」の故事。「絶塵の故事」:孔子の弟子・顔回の「常に先生についていこうとしていますが、先生が塵を絶つが如く奔り出すと、私は独り取り残されて瞠目するばかりです」と述べていること。「絶塵の足」は走ることの極めて速くして塵埃の上に超佚すること、千里の名馬、名馬は土塊の上を走りて然る後知らるるなり」とあるのを解釈に採用したいが、本注釈者はそのような解釈を採っていません・・・。少々わかりづらいので説明省略。
③(弓蛇):憂いや疑いは酒杯の中に映る蛇に過ぎず、そうと知れば両眉晴れるを得ん。得失は夢に鹿を隠すに同じ、そうと知れば固執せずして前進あるのみ。 「杯底の弓蛇」は、杯中の蛇影の故事(晋書・楽広伝)。酒杯の中に蛇をみた男が心を病んだが、実は壁に掛けてあった角弓の蛇の画が映っただけで、これを知って男の憂いはすぐに癒えたという。 「夢中の蕉鹿」は、蕉鹿の夢の故事(列子・周穆王篇)。鄭の人が鹿を倒して見つからないように芭蕉の葉で隠したところ、その場所が分からなくなり、男は夢と為してあきらめたという。
④(銖累):人から善言を受けること、商売人の利益を求めるが如く、わずかなものでも着実に積み重ねてゆけば、自然と心豊かに老熟するであろう。
⑤(陶鎔):士君子にして人を感化させることが出来ぬのは、結局のところ学問を尽くしきれずして真に至らぬからである。「工力」:(多く文学・芸術についての)修業と力量、技能、熟練度。
ではまた。
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