食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)

2021-07-01 17:36:37 | 第四章 近世の食の革命
ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)
ジェントルマン(gentleman)」は日本語では通常「紳士」と訳されますが、イギリス史におけるジェントルマンは、簡単に日本語訳ができないほど深い意味を持つ言葉で、また時代とともにその意味も変わって行きます。

近世以降のイギリスはこのジェントルマンが社会の中心となって発展して行きます。例えば、イギリスの近代化にはジェントルマンが担った金融やサービス業などの発展が重要であると考えられており、これを「ジェントルマン資本主義」と言います。

今回は、ジェントルマンの誕生と「イギリス料理が不味い」と言われる理由について見て行きます。

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イギリス(イングランド)がフランスと戦った百年戦争(1339~1453年)や、イングランドの王位継承権を持つ者同士が争ったバラ戦争(1455~1485年)によって、戦争に参加した封建貴族の多くが戦争にともなう出費などによって疲弊し、没落した。

没落貴族に代わって地主となったのが、「ジェントリ(gentry)」と呼ばれた騎士や商人、そして豪農などだ。ジェントリの多くは、イギリスがノルマン人によって支配される以前に各地域を治めていた有力者たちであった。このため、地域の代表としての自覚があり、治安維持や徴税などの役務を無給で行ったり、道路の整備や公共施設の建設などの慈善事業を行ったりした。

このようにジェントリは、自らの利益だけを追求するのではなく、地域の「親分」として庶民を見守る存在だった。さらに、日頃から体力とともに知性や芸術性を高めることで、誰からも尊敬されるような人物になろうとした。そして、これをジェントリのあるべき姿として自らの行動を律することを誇りとしていた。

一方、国王側もジェントリを国の組織に取り込むことで、国内を安定化させて統治できると考えた。そこで、ジェントリを下院議員や地方官僚、判事などの役職に就かせたのである。

ジェントリはプロテスタントに改宗した者が多く、ヘンリ8世(在位:1509~1547年)が離婚問題からローマ・カトリックを脱してイングランド国教会を設立した時も国王を支持した。ヘンリ8世の方も、宗教改革の一環として修道院の解散を行った際に、その土地を貴族やジェントリなどに優先的に払い下げた。その結果、ジェントリはさらに勢力を拡大することになるのである。

なお、この時には一部の商人にも土地が払い下げられたが、彼らも新たなジェントリとして迎え入れられることになった。このようにイギリスでは、ビジネスで成功した者が土地を手に入れることでジェントリになるという図式が定着して行った。成功者をジェントリとして取り込むという点でイギリスの上流階級は開放的であり、これによって支配階級の活力が保たれたと言われている。

ヘンリ8世の死後、イングランドは一時的にカトリックに戻ったが、エリザベス1世の代にはジェントリを味方につけることでイングランド国教会が復活し、定着した。

エリザベス1世には子供がいなかったので、彼女の死後には次のイングランド王として遠縁でスコットランド王のジェームズ6世(在位:1603~1625年)が即位した。ジェームズ6世は、王位は神から与えられた神聖なものという王権神授説を信奉しており、議会を無視するなど専制的な行いを繰り返した。特に、イングランド国教会以外のプロテスタント(ピューリタン(清教徒)と呼ばれた)を認めなかったため、ジェントリの反発を招いた。

息子のチャールズ1世(1625~1649年)も専制的な政治を行い、プロテスタントを徹底的に弾圧した。そして、議会と激しく対立した結果、双方が軍隊を立てて戦う内戦となってしまった。議会派の中心がジェントリ出身のピューリタンであったため、この内戦はピューリタン革命(清教徒革命)(1642~1649年)と呼ばれる。

最初は国王派(王党派)が優勢だったが、議会派の中心人物だったオリバー・クロムウェル(1599~1658年)の活躍によって巻き返しをはかり、最終的に議会派が勝利した。敗れたチャールズ1世はロンドンの広場で公開処刑された。なお、クロムウェルはジェントリ出身の熱心なピューリタンで、下院議員を務めていた。


オリバー・クロムウェル

権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、反対する勢力をことごとく弾圧し、追放した。1653年には独裁権を持つ護国卿となり、死ぬまで独裁者として君臨した。

クロムウェルの時代には対外的にも大きな出来事がいくつも発生した。その一つがアイルランドの征服と植民地化だ。

イングランドとは異なり、アイルランドにはケルト人の文化が残り、またカトリックの教えが根付いていた。アイルランドはヘンリ8世の代からイングランドによって支配されており、エリザベス1世の代には北アイルランドに多数のイングランド国教会の信者が移住した。その結果、アイルランドでは宗教的な対立が起こるようになる。

1641年にはカトリック教徒を中心に反乱が起き、多くのイングランド国教会の信者が殺された。するとクロムウェルは軍を派遣して、カトリックの弾圧を行うとともに一般住民の大虐殺を行った。また、アイルランド全体の約40%の土地を奪い、軍人に褒賞として与えたり、商人に売り渡したりした。これは事実上の植民地化であり、これ以降イングランドやスコットランドの地主がアイルランドの土地を支配するようになった。アイルランドはイングランドよりも農業や牧畜に適した土地であったため、アイルランドはイングランドに食糧を供給する農場と化してしまったのである。

アイルランドで生産されたコムギ、オオムギ、ライムギなどの穀物のほとんどはイングランドに送られ、アイルランドの人々は主にジャガイモを食べて暮らすようになったという。このことが19世紀の半ばにジャガイモの大凶作によって大勢のアイルランド人が死んだ「ジャガイモ飢饉」を引き起こす原因となった。

一方、1652年からイングランドはオランダと戦争を始める。また、カリブ海への進出を行い、西インド諸島を植民地化して砂糖のプランテーションを開始した(これらについては後に詳しく見て行きます)。

さて、最後に「ジェントルマン」の話をしよう。

17世紀にはジェントルマンという言葉が定着して使われるようになっていた。例えば、クロムウェル自身も「私は生まれながらのジェントルマンである」と言っている。

この時代のジェントルマンとは貴族階級とジェントリを合わせた人たちを意味しており、地代収入によって豊かな生活を送っていたという点で共通していた。そして、婚姻関係はジェントルマンの家族同士でしか結ばれず、貴族とジェントリはほぼ同一の社会階級とみなされたのである。ちなみに、ジェントルマンである貴族とジェントリはともに「家紋」を持つことが許されていた。

このように特権階級であったジェントルマンの階層は、多くてもせいぜい人口の5%程度しかいなかったとされている。しかし彼らが、政治・経済・学問・芸術などの世界で圧倒的な影響力を及ぼしたのだ。

ジェントリの多くがカルヴァン派のプロテスタントであったことから、その生活もカルヴァンの教えに従った質素なものを目指した。私たちはジェントルマンの服装と言えば黒いスーツを思い浮かべることが多いが、その理由は華美な服装をしなかったジェントリの生活スタイルにある。

また、食生活においてもジェントルマンは暴飲暴食を避け、簡単で質素な料理を好んで食べた。イギリス人は牛肉が大好きだが、単に焼いただけのステーキローストビーフとして食べることが多い。肉にかけるソースも、焼いた時ににじみ出してきた肉汁にワインや調味料、小麦粉などを加えて作ったグレイビーソースが基本で、あまり手をかけない。



ジェントルマンがこのように簡素な食事を好んだことから、イギリス料理では食材の種類が少なく、また調理法の多様性も広がらなかった。これが、フランス料理やイタリア料理などと比べて「伝統的なイギリス料理は不味い」と言われる一因となったと考えられている。