食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の革命(3)

2021-07-13 20:13:24 | 第四章 近世の食の革命
ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の革命(3)
本ブログとは全く関係ありませんが、現在フランスでは自転車レースの「ツール・ド・フランス」が開催されています。ツール・ド・フランスは100年以上の歴史がある大会で、数あるロードレースの中でも最高峰のレースと言われています。

今大会で大きな話題となっているのが、1970年代にエディ・メルクスと言う選手が打ち立てた最多勝記録にマーク・カヴェンディッシュと言う選手が並んだことです。ツール・ド・フランスは通常21のレースで構成されていて、そのうちの1つのレースで勝つと1勝と数えます。現在の最多勝は34勝となっていて、果たしてカヴェンディッシュ選手が最多勝を塗り替えることができるのか、注目が集まっています。

さて、今回はルイ15世(在位:1715~1774年)を取り上げます。

ルイ14世(在位:1643~1715年)の代にヴェルサイユ宮殿を中心とした絢爛豪華な文化が花開きますが、王が年老いるとともにその輝きは月並み化して行きます。いわゆるマンネリ化が進んだのです。そこに新しい風を吹き込んだのがルイ15世の公妾(こうしょう)のポンパドゥール夫人でした。彼女のおかげでヴェルサイユ宮殿は再び輝きを取り戻すのでした。

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ルイ15世(在位:1715~1774年)はルイ14世の曾孫(ひまご)にあたる。ルイ14世があまりにも長生きであり、その間に王位継承者のほとんどが亡くなってしまったため、わずか5歳で国王となったのである。

ルイ15世は歴代のフランス王の中で一番の美男子と言われており、また、その体格も大変立派だったとされている。このため、幼少の頃よりとても人気があり「最愛王(le Bien-Aimé)」と呼ばれた。


     ルイ15世

ルイ15世の即位後から成人(当時のフランスでは満13歳)までは、ルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が摂政として政治を取り仕切った。オルレアン公はそれなりに優秀であり、財政再建などを成功させている。

成人した1723年からは、自らが政治を行う親政を開始した。と言っても、実のところは宰相を置いて、政務のほとんどを任せていたという。なお、即位後のルイ15世の居城はパリにあったが、成人前にはルイ15世の希望によって20kmほど離れたヴェルサイユ宮殿に戻された。

ルイ15世の日常の食生活では、朝起きるとカップ1杯のミルクを飲んだ。昼食も夕食もよく食べ、ポタージュを必ず2品と、羊や仔牛、野鳥のロースト、そして果物を好んで食べたと言われている。

ルイ15世は1725年には7歳年上のポーランド王女のマリー・レグザンスカと結婚した。そして1727年の双子の王女の誕生を皮切りに、10年の間に11人もの子供を授かった。

ルイ15世は1733年にレグザンスカの母国ポーランドの王位継承問題に介入し、最終的に現在のフランス北東部にあるロレーヌをフランス領とした。また、1741年からは、神聖ローマ帝国の皇帝位を巡って国際戦争となったオーストリア継承戦争(1740~1748年)に、ハプスブルク家の弱体化のために参戦した。この戦争では、ハプスブルク家のマリア・テレジアの夫が皇帝となる代わりに、オーストリアの一部の領土がプロイセンのものとなった。ルイ15世の目論見通りだった。

しかし、国土奪還に燃えるマリア・テレジアは、前回は敵に回ったフランスと同盟を結び、1756年からプロイセンとの戦争を開始した。プロイセン側にはイギリスが付き、フランスとイギリスの戦いは北アメリカの植民地でも行われた。結果は、プロイセン・イギリスの勝利となり、プロイセンの勢力が拡大するとともに、北アメリカのほとんどがイギリス領となった。一方、フランスはこの戦いのために大きな借金を抱えることとなり、次のルイ16世の代のフランス革命(明日の7月14日が革命記念日!)のきっかけになったと言われている。

さて、11人の子供を産んだマリー・レグザンスカは、もうこれ以上子供を産むのは嫌だと言って夫婦生活を拒否するようになった。そこでルイ15世は愛人を作るようになる。愛人と言っても公式に認められた制度であり、「公妾(こうしょう)」と呼ばれて必要な費用も宮廷費で賄われた。なお、公妾になるには既婚者である必要があったため、良い女性を見つけると名目上は貴族の夫人にして、宮殿に住まわせた。

ルイ15世の公妾として最も有名なのがポンパドゥール夫人である。彼女は1745年から亡くなる1764年までヴェルサイユ宮殿を取り仕切ることになる。


    ポンパドゥール夫人

ポンパドゥール夫人は豊かな平民であるブルジョワ階級の出身であり、資産家だけでなく、文化人や芸術家とも交流があった。その頃の新しい文化はブルジョワ階級がパトロンとなることで発展しており、彼らが主催したサロンに多くの文化人や芸術家が集まってきていたのである。ポンパドゥール夫人はこの最先端の文化をヴェルサイユ宮殿に持ち込んだのだ。

ヴェルサイユ宮殿の人々もこれを歓迎したと言われている。代わり映えしない宮殿文化が彼女のおかげで輝きを取り戻して行ったからだ。

ポンパドゥール夫人は、身に付けるドレスや靴、装飾品、そして髪型を最先端なものにして行った。それを見たヴェルサイユ宮殿の人々も夫人のマネをしたという。

また、服飾だけでなく、邸宅の建設にも手を出し、現在フランス大統領の官邸となっているエリゼ宮などを建てた。さらに、大きな工房を建設し、「セーヴル磁器」と言うすばらしい磁器を生み出すことに成功した。

ポンパドゥール夫人はルイ15世を喜ばせるために、料理にも大きな関心を寄せたと言われている。仔羊の薄切り肉をトリュフと一緒にブイヨンで煮た「仔羊のタンドロン太陽風」などの料理を考案したと言われている。また、「フランスパン」と私たちが呼んでいる、バゲット型のパンの原型を作ったのも彼女だと伝えられている。

一方、彼女に刺激を受けたヴェルサイユ宮殿の料理人たちも彼女のために新しい料理を作り出して行った。こうして新しく生まれた料理は「ポンパドゥール風」と付けられた。

ポンパドゥール夫人にはシャンパンをほめたたえたり、ブルゴーニュワインをヴェルサイユ宮殿から一掃したりなどワインに関する話題も多く残されているが、それについてはまた回を変えてお話したいと思う。

1764年にポンパドゥール夫人が亡くなってしばらくすると、娼婦上がりのデュ・バリー夫人を公妾とした。ちなみに、漫画の「ベルサイユのばら」には、オーストリアからフランス王太子に嫁いできたマリー・アントワネットが、元娼婦のデュ・バリー夫人をすごく嫌うという逸話が描かれている。

ルイ15世がデュ・バリー夫人を公妾としていた頃に好んで食べていた食材にカリフラワーがある。そこで、カリフラワーが入った料理には、愛するデュ・バリー夫人の名を入れた「デュ・バリー風」と付けられるようになった。例えば、「コンソメ デュ・バリー風」とは、卵で固めたカリフラワーを浮き身としたコンソメスープのことだ。

実は、ルイ15世も料理好きで、公妾のためにオムレツを作ったり、ひばりのパテなどを作ったりしたと記録されている。また、コーヒーをいれるのもうまく、女性と喧嘩しても、「余がコーヒーをいれてやろう」と言って女性の機嫌を取って仲直りしたと言われている。かなりマメな王様だったようだ。