食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)

2021-07-14 23:23:39 | 第四章 近世の食の革命
ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)
本日7月14日はフランスの革命記念日です。1789年の今日にパリの民衆はバスティーユ監獄を襲撃し、陥落させました。これがフランス革命の発端となったため、この日を記念日としているわけです。

フランスでは「フランス国民祭典(Fête nationale française)」と呼ばれ、様々な催し物が執り行われます。祭典が行われるようになったのは1880年からで、この日は「自由・平等・友愛」の共和政の始まりの象徴となっています。

なお、パリ祭という言い方がありますが、これは日本だけの呼称で、日本以外では使われません。

さて、今回はフランス革命が起こった時にフランス王だったルイ16世を取り上げます。

通説では、ルイ16世は優柔不断な性格をしていたためにフランス革命が起きてしまったとされていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。


       ルイ16世
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ルイ15世は1774年5月に天然痘で亡くなったとされている。59年の治世だった。

次に即位したのが、ルイ15世の孫のルイ16世(1754~1793年、在位:1774~1792年)だ。ルイ15世は政治に関心が薄かったが、ルイ16世も同じように政治にあまり興味を示さなかったと言われている。

ルイ16世と言えば、悲劇の王妃マリー・アントワネット(1755~1793年)を妃としたことでも有名だ。ルイ16世は祖父のルイ15世とは異なり、生涯にわたって愛人を持つことはなかった。


    マリー・アントワネット

ルイ16世はブルボン朝の王の中でもっとも大食いと言われており、朝起きると鶏肉料理と仔牛肉のカツレツ(コートレット)を平らげたらしい。それでも食べ足りない日には、卵料理とシャンパンをまるまる1本飲んだと伝えられている。専用の馬車にはパンやワイン、干し肉などが常備してあったらしい。

ただし、彼の食べ方は美しくなく、何でも手づかみで食べたし、食べ終わった肉の骨は周りに投げつけたという。

一方のマリー・アントワネットの好物が「クーグロフ」というお菓子だ。発酵させた小麦粉の生地に干しブドウなどを入れて専用の型で焼いたものに粉砂糖をまぶして食べる。アントワネットは毎日のように食べていたと言われている。


    クーグロフ

ルイ16世は政治に関しては宰相に任せていたのだが、フランスは憎きイギリスに打撃を与えるために、北アメリカのイギリス植民地で始まったアメリカ独立戦争(1775~1783年)に加担することになった。最初は財政面や物資面での援助だけだったが、やがてフランス軍を派遣してイギリスの拠点を制圧し、アメリカの独立を成功に導いた。

その結果、フランスの国際的な地位は向上したが、実利はほとんどなかったため、莫大な借金を抱え込むことになってしまった。ルイ15世の代から引き継いだ借金を合わせると、利息だけで国家予算がとんでしまうぐらいのとんでもない借金だったと言われている。

借金を返すためには税収を増やすしかなかった。そこで財務卿のネッケルは、世論を味方につけようとして、1781年にフランス財政の現状を報告書にまとめて世間に発表した。ところが、この報告書が大きな波紋を生み出すことになった。戦費はぼかして書かれていたのに対して、宮廷費は事細かに記されていたのだ。これを見た民衆は、借金の一番の原因は王家の贅沢だと考えてしまったのである。特にマリー・アントワネットに批判が集中した。普段の派手な振る舞いが問題になったのだ。ネッケルは責任をとって辞任した。

そんな時に有名な詐欺事件が起こる。1784年に起きた「王妃の首飾り事件」だ。これは、ある伯爵夫人が、王妃が欲しがっていると言って宝石商から首飾りをだまし取り、さらにその代金を枢機卿からもだまし取ろうとしたものだ。宝石商が王妃に代金を請求して、伯爵夫人の詐欺行為が発覚した。

王妃は被害者だった。しかし、民衆はそうは取らずに、王家のもみ消しだと考えたのである。その結果、ますますマリー・アントワネットの人気は凋落することとなった。さらに、ルイ16世も人気を失った。愛人を作らずにマリー・アントワネット一人だけを愛しているのだから、同罪と言うわけだ。

1786年に新しい財務卿は、ルイ16世に土地に税金をかけることを提案した。そうなると困るのは聖職者や貴族たちで、反発は必至だった。紆余曲折あったが、最終的にルイ16世は、聖職者や貴族たちに対抗するために、1789年に聖職者・貴族・平民で構成される「三部会」を招集し、ここで税の問題について議論しようとした。

ところが、王のなすべきところは平民部会を助けることだったのに、結局のところは貴族たちの肩を持ってしまった。これで平民たちは反発を強め、国民議会という組織を立ち上げる。そして、球戯場に集まって国民のための憲法が制定されるまで国民議会は解散しないと宣言した。

この頃には、以前に財務卿だったネッケルが再び財務卿に就任していたのだが、その彼をルイ16世が更迭した。実はネッケルは庶民にすごく人気がある人物で、この更迭に怒りを爆発させた民衆が蜂起する。こうしてフランス革命が開始され、7月14日にバスティーユ要塞を襲撃したのである。

国王軍との戦いに勝った革命軍は、8月26日に「自由・平等・友愛」が明記された人権宣言などを提出する。こうしてフランスで貴族的特権は消失し、国民全員が自由で平等になった。

それでも革命の流れは止まらない。食糧難でパンが無いと嘆いたパリの女性たちは、集団となってヴェルサイユ宮殿に押し入り、ルイ16世一家を引きずり出してパリに移住させるという事件が起きる。ルイ16世一家は窮地を脱するために逃亡劇も繰り広げたが、これは失敗に終わった。

1791年には立憲君主制を定めた憲法が制定された。しかし、この憲法では国王の強力な拒否権が定められていたため、議会とルイ16世はことごとく対立するようになる。さらにオーストリアやプロイセン、ロシアが自国の王政への影響を恐れて、ルイ16世の絶対王政を復活させるための戦いを仕掛けてきた。この戦いにフランス軍は敗戦を重ねてしまう。フランスは絶体絶命の窮地に追い込まれたのだ。

ここで急進派の市民が王の失権を要求して動き出した。議会を掌握し、王を捕らえて王政の廃止を宣言したのだ。また、諸外国との戦いもフランス軍優位に傾いて行った。

捕らえられたルイ16世は裁判にかけられ死刑判決が下された。そして1793年1月21日に断頭台の露と消えたのである。王妃のマリー・アントワネットも、同じ年の10月に夫と同じ運命をたどった。

次回からはフランス・ブルボン王朝時代の食について詳しく見て行きます。