4・5 フランスの大国化と食の革命
良王と呼ばれたアンリ4世-フランスの大国化と食の革命(1)
今回から16世紀後半から18世紀にかけてのフランスの食の世界を見て行きます。
現代の西ヨーロッパの大国はどこかと問われると、多くの人がイギリス、フランス、ドイツと答えると思われます。歴史的に見ると、この三国の中で最初に大国化に成功するのがフランスです。
ハプスブルク家が支配していたスペインや神聖ローマ帝国が次第に衰えて行くのとは逆に、王に権力を集中させる絶対王政をいち早く整えたブルボン家のフランスは、一大強国へと成長して行きます。それに続くのがイギリスで、その結果ヨーロッパの歴史は、フランスとイギリスの対立を軸にして進んで行くことになります。
今回は、絶対王政の礎を築いたブルボン家初代フランス王のアンリ4世を中心に見て行きます。
アンリ4世
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ルター(1483~1546年)やカルヴァン(1509~1564年)らが進めた宗教改革によって、ヨーロッパではプロテスタントが次々と誕生した。フランスはカトリック国だったが、南部を中心にプロテスタントに改宗する人が続々と現れた。
そして、1560年頃になるとカトリックとプロテスタントの対立が激しくなり、内乱状態に発展する。フランスではプロテスタントのことを「ユグノー」と呼んだため、この内乱を「ユグノー戦争」という。
1572年にカトリックとユグノーの融和をはかるために、フランス王シャルル9世の妹とユグノーの指導者でナバラ王だったアンリの結婚式が執り行われたが、この祝典に集まった数千人ものユグノーを国王側が惨殺するという事件(サン・バルテルミの虐殺)が起きてしまう。その結果、内乱はますます激しさを増して行った。
そのような中で、1589年にフランス王アンリ3世(在位:1574~1589年)が暗殺される。その結果、アンリ3世のヴァロワ家には王位継承権を持つ者がいなくなってしまったため、遠縁であるブルボン家のナバラ王アンリが次のフランス王になることに決まった。
しかし、アンリはユグノーのリーダーだった。憤慨した有力な貴族や宮廷関係者は彼を王として認めないと反発し、パリの門を閉ざした。彼らのほとんどはカトリックで、またパリの民衆の多くもカトリックだったからだ。
ところがアンリは政治的な理由から改宗を何度も繰り返してきた男であり、今回もカトリックに改宗することでこの危機を乗り切った。実に5度目の改宗だった。彼は歴代の王のようにカトリックの「塗油」の儀式を受けて、手で触れることで病を治す神通力を身に付けたと言われている。
この神通力こそがカトリックの王の証だった。感じ入った人々はパリの門を開け、新しい王を招き入れた。ブルボン朝初代アンリ4世(在位:1589~1610年)の治世の始まりである。
彼は10年近くをかけて反抗するカトリック勢力を屈服させた。また、スペインなどから侵略を受けていた土地を奪い返して行った。こうして1598年にはフランス全土を掌握することに成功する。
アンリ4世は最後まで抵抗を続けたブルゴーニュのナントで「ナントの勅令」を発布し、ユグノーに信仰の自由と公職就任権を認め、安全な生活ができる都市を与えた。自分自身はカトリックに改宗したが、ユグノーにも花を持たせたのである。思惑通り、カトリックとユグノーの戦いは収束した。
アンリ4世は在位中から現代に至るまで非常に人気がある王だ。それは「良王アンリ(le bon roi Henri)」と呼ばれるほどに国民のための統治を行ったからだ。
戦争で荒廃した農地を見たアンリ4世が「我が治世においては、日曜日の農民の食卓には必ずプール・オ・ポが乗るべし」と言ったという有名な逸話が残っている。
「プール・オ・ポ(poule au pot)」とはメンドリの肉を鍋で煮込んだものだが、これは当時の貧しい農民が簡単に口にできる料理ではなかった。それを日曜日には必ず食べられるようにしてやるぞというアンリ4世の意気込みだったのだ。
彼は貧しい農民のために、借金のかたに家畜や農具の差し押さえをすることを禁止した。また、各個人に対して一律に課される人頭税を引き下げた。一方、塩税などの間接税を上げたり、官位のある者から新たに徴税を行ったりすることで税収を増やした。つまり、貧しい人々の負担を減らす代わりに、金持ちの税金を増やしたのだ。
また、軍隊を拡充し、多くの兵士を常備軍として雇い入れた。これで戦が無くなっても路頭に迷うことはない。さらに血気あふれる者は探検隊として北アメリカに派遣した。こうして1607年にはケベック市が建設されてカナダ植民が始まることになる。
アンリ4世の下で活躍した農学者にオリヴィエ・ド・セール(1539~1619年)がいる。彼は試験農場で様々な実験を繰り返すことで、高い収穫量が見込める耕作法や牧畜の技術、養蚕の技術などを開発して行った。特に様々な野菜の耕作法を見つけ出したおかげで、その後のフランス人の食卓にはたくさんの野菜が乗るようになったと言われている。
また、トウモロコシやイネ、ホップなどの新しい作物を積極的に導入し、栽培方法とともに調理法も研究したとされている。
セールの研究成果は1600年に『農業経営論』として出版され、19版を重ねるベストセラーになった。しかし、あまりにも時代を先取りしすぎていたため、当初はフランスでは受け入れられず、むしろ先進的なイギリスやオランダで大人気になったそうだ。なお、アンリ4世は養蚕技術の部分を絶賛し、一万六千部を増刷してフランス中に配布したと言われている。
このように国土の復興に努めたアンリ4世だったが、その最期は唐突に訪れた。乗っていた馬車が停止したところを狂信的なカトリック教徒に襲われたのである。1610年5月14日、まだまだ活力にあふれた56歳の春のことだった。
嘆き悲しんだ国民は犯人をなぶり殺しにして、最後はすべてが灰になるまで焼き尽くしたと言われている。国民にとても愛されていた王だったのだ。