中国系移民の食-アメリカの産業革命と食(10)
移民の国アメリカにはたくさんのアジア人もやってきました。その中で、アメリカの食に大きな影響を及ぼしたのが中国人です。しかし、アメリカにやって来た中国人の生活は決して安泰なものではありませんでした。人種差別による迫害を受けたからです。
今回はこのような社会背景とともに、中国系移民の食を見て行きます。
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アメリカへの中国からの移民は1840年代から始まり、1860年代になると急増した。この背景の一つには、中国とイギリスの関係がある。それを簡単に言うと、次のようになる。
18世紀の終わりにかけてイギリスで紅茶を飲む習慣が広まり、茶の需要が高まった。その結果、中国(清)からの茶葉の輸入が増加したのだが、イギリスの主要輸出品であった綿製品は中国では売れなかったため、イギリス側は大幅な赤字となる。この時イギリスが目を付けたのがアヘンで、アヘンを植民地のインドで作らせ、綿製品と交換し、中国に持ち込んだのである。
中国はアヘンの輸入を禁止するが、それに反発したイギリスが1840年にアヘン戦争を起こした勝利する。そして、1842年に結ばれた南京条約によって鎖国状態だった中国は開国し、中国人の海外への移動が可能となった。
折しもイギリスでは、1833年に奴隷制度が廃止されていた。そこで、奴隷商人は黒人奴隷の代わりに中国人やインド人を安価な労働者として海外に移住させたのだ。それは名目上は契約という形を取っていたが、多くの場合で暴力を用いた強制的なもので、奴隷貿易と何ら変わらなかった。
こうして海外に移住した労働者は苦力(クーリー)と呼ばれて酷使されることになった。アメリカではゴールドラッシュに沸く西海岸の鉱山や、建設中の大陸横断鉄道で主に働いていた。カリフォルニアでは1870年代には中国人が州人口の1割弱をしめるまでになったと言われている。
中国人たちは「チャイナタウン」と呼ばれる貧民街で共同生活を営んでいた。そして、一部の人々が、同胞の人たちを相手に食堂などの商売を始めた。これが中華レストランの始まりだ。なお、中国からの移民のほとんどが広東出身であったため、料理のベースは広東料理だった。と言っても、本格的な中華料理を学んだ者は少なく、家庭料理の延長のような料理を作っていたと考えられる。1850年までに、サンフランシスコには8軒程度の中華料理店があったと言われている。
最初は同胞の中国人のための料理だったが、次第に他のアメリカ人の味覚に合うように料理が工夫されるようになった。その結果、中華料理店は、安くてとてもおいしい料理を出す店として知られるようになって行く。特に、若者たちに人気があったようだ。
その頃の人気の料理に「チャプスイ(chop suey)」がある。これは、広東料理が元になったと言われているもので、豚肉や鶏肉をモヤシなどの野菜と一緒にごま油で炒めてから煮込んだ料理で、とろみをつけあと、チャーハンや麺にかけて供される。八宝菜に似た料理と言えばわかりやすいかもしれない。
中国系移民はアメリカで様々な迫害を受けた。その最たるものが1882年に制定された「中国人労働者移民排斥法」だ。これは、学生や商人、旅行者以外の中国人のアメリカへの入国を禁止するもので、1943年まで続いた。
それでも、アメリカの中華料理は進化を続け、20世紀に入るとアメリカの中華料理はより甘くなり、揚げ物が多くなった。また、ブロッコリーという中国にはない野菜が使用されるようになった。
ちなみに、アメリカの中華料理店では最後にフォーチュンクッキーが出てくるが、これは元々日本料理店で出されていたものが第二次世界大戦後に中華料理店で出されるようになったものだ。いろいろなものが取り入れられて、現代に続くアメリカの中華料理が作られて行くのである。