食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

古代アーリヤ人の食生活-古代インド(2)

2020-09-16 22:45:36 | 第二章 古代文明の食の革命
古代アーリヤ人の食生活-古代インド(2)
古代四大文明の一つのインダス文明(紀元前2600年頃~前1800年頃)の遺跡からはコムギとオオムギがよく発見されることから、それらが主食になっていたと考えられている。ほかには植物性の食べ物としてはナツメヤシの実も食べられていたようだ。また、家畜としてウシ・スイギュウ・ヒツジ・ゾウ・ラクダが飼育されていたことも分かっている。ブタとニワトリの骨も見つかっているが、これらが家畜か野生かは不明である。農耕地と家畜の放牧地は都市部の周辺に広がっており、住民の分業化が進んでいたと考えられる。さらに、狩猟と漁労も行われており、鳥獣と魚介類も重要な食料だったようだ。

何らかの理由でインダス文明が衰退した後に、パンジャーブ地方(インダス川上流域)にアーリヤ人が進入してきた。紀元前1500年頃のことである。

アーリヤ人は現代のヨーロッパ諸民族と同じ民族に属すると考えられており、背が高く、肌の色は白く、鼻はまっすぐに長かった。アーリヤ人は遊牧民であり、ウマに引かせた戦車を巧みに操った。また、鎧を身にまとい、青銅製の武器を使って彼らの敵を打ち破って行ったことが、彼らが残した最古の文献である『リグ・ヴェーダ』に残されている。彼らの敵は肌が黒くて鼻が低いという特徴から、ドラヴィダ系の先住民と推測される。

『ヴェーダ』は「聖なる知識」を意味し、バラモン教とヒンドゥー教の聖典である。ヴェーダはアーリヤ人がパンジャーブ地方に進入した紀元前1500年より少し前からの出来事が口伝されていたものを文書としたもので、紀元前1000年頃に成立されたと考えられている。ヴェーダは多数の自然神を讃える歌に始まり、祭祀や哲学に加えて、当時生活などの内容も含んでいる。なお、アーリヤ人がパンジャーブ地方からガンジス流域に拡大を終えた西暦500年頃までの時代にヴェーダが成立したことから、この時代を「ヴェーダ時代」とも言う。

アーリヤ人は遊牧民であったが、パンジャーブ地方で暮らし始めると先住民に教わり、農耕を始める。『リグ・ヴェーダ』では、ウシに犂をひかせて畑を耕す様子が語られている。そして、作物の豊作を神に祈った。アーリヤ人はその頃は主にオオムギを育てていたようだ。

農耕を始めたとは言え、アーリヤ人にとって牧畜も依然として重要だった。家畜としてウマと乳牛とフタコブラクダが飼われていたが、中でも乳牛が最も多く、アーリヤ人は牛乳がとても好きだったようだ。しぼられた牛乳はそのまま飲まれたり、乳酸発酵させたものが飲まれたりした。また、オオムギの粒や粉を牛乳で煮て乳粥として食べたらしい。さらに、牛乳をよく混ぜることでできる油脂をすくってバターも作られていたという。



オウシやフタコブラクダは農作業や運搬作業に使われたり、肉として食べられたりした。後にウシは神聖な動物として殺すことが禁じられるようになるが、この頃のアーリヤ人は遊牧民の時の慣習のままにウシの肉を食べていたのである。

やがてアーリヤ人の一部は東進を始める。そして紀元前10世紀頃にガンジス川上流域に進出し、さらに中下流域へと移動して多数の都市国家を建設した。これらの都市国家はお互いに競い合い離合集散を繰り返して、紀元前7世紀末までにコーサラやマガダなどの領域国家が成立した。

なお、この時代には農耕技術に進歩が見られた。以前よりも犂が大きく重くなり刃先が鉄製になったため、たくさんのウシを使ってひくことで深く耕すことができるようになった。さらに『リグ・ヴェーダ』には、農耕に肥料を使うようになったことが記されている。農作物の種類も増えて、オオムギのほかに、コメ、コムギ、エンバク、マメ、ゴマなどが栽培されたらしい。

さて、インドと言えば砂糖である。サトウキビは現在のニューギニア島付近が原産地とされており、紀元前6000年前後にインドや東南アジアに広まったと考えられている。つまり、アーリヤ人がやってくる以前からインドではサトウキビが存在していた。それが紀元前500年頃になると、サトウキビのしぼり汁を煮詰めて糖蜜を作る方法が発明されたのだ。この糖蜜は乳の粥などに入れられるようになり、当時の人々を楽しませたと推測される。


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