食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

唐の衰退と楊貴妃-古代中国(10)

2020-08-17 22:52:16 | 第二章 古代文明の食の革命
唐の衰退と楊貴妃-古代中国(10)
玄宗(在位:712~756年)の前半の治世は良かったが、楊貴妃は世界三大美女の一人と言われた楊貴妃(ようきひ、719~756年)に出会ったことによって玄宗は堕落してゆく。楊貴妃は元は玄宗の息子の妃だった。それが玄宗の目に留まり、744年に自らの妃としたのだ。二人の歳の差は34歳(56歳と22歳)だった。

    楊貴妃

玄宗はどこに行くにも楊貴妃を連れて行った。また、楊貴妃を喜ばした者には多大な褒美を与えたという。有名な話だが、楊貴妃はライチが大好きだった。ライチは南の果物で、原産地は中国南東部である。ライチは6月頃の短い期間しか実がならず、またすぐに悪くなってしまう。そこで玄宗は楊貴妃のためにライチを、早馬をリレーさせることで1000㎞以上離れた中国南部から長安に短期間のうちに運ばせたという。

また、玄宗は楊貴妃の一族に様々な役職を与えて取り立てた。中でも楊貴妃のまた従弟の楊国忠は皇帝を補佐する宰相まで上りつめる。絶対的な権力を得た楊国忠は専横的な政治を行うようになった。

一方、「節度使」という役職にあった安禄山は、宮廷で楊貴妃に取り入ることで大きな力を持つようになった。ちょうどこの時代には土地の私有化が広がっており、均田制で農民に分配して耕してもらう土地が不足していた。この結果、均田制によって成り立つ府兵制(徴兵制)が機能しなくなりつつあり兵不足が起こっていた。これを補うために専業の兵士が生まれた。国境地帯でこのような兵士をまとめていたのが節度使であり、軍事力とともに大きな行政権も有していた。その一人だった安禄山が楊貴妃のお気に入りになることで、さらに大きな力を手に入れたのだ。

やがて、安禄山は宰相の楊国忠と対立することになる。安禄山は長安から本拠の范陽(現在の北京付近)に戻り755年に兵を挙げた。「安史の乱」の始まりである。安禄山はまたたく間に長安と洛陽を陥れた。玄宗は楊貴妃と楊国忠とともに四川に逃げようとしたが、途中で暴動を起こした兵士に捕まってしまう。そして、彼らの要求に従って、泣く泣く楊貴妃と楊国忠を処刑したという。756年の夏のことである。なお、安史の乱はトルコ系民族のウイグルの助力によって8年後に何とか鎮圧することに成功する。これは唐王朝が独力で反乱を抑える力さえ失ったことを序実に示している。

 楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことは二度となかった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。