食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

トプカプ宮殿の料理-中世のトルコ系民族国家の食(5)

2021-03-22 23:05:36 | 第三章 中世の食の革命
トプカプ宮殿の料理-中世のトルコ系民族国家の食(5)
メフメト2世(在位: 1444年~1446年、1451~1481年)以降のオスマン帝国のスルタンは「トプカプ宮殿」に居住していました。この宮殿は東京ドーム5つ分の約7 0万平方メートルの敷地を有しますが、中にはそれほど大きな建物はなく、数多くの庭園と小さな建物や部屋が連なった構造をしています。これは、先祖の遊牧民の伝統に基づいたものであると言われています。

なお、トプカプ宮殿という名前は宮殿が建つ丘の先端にある「大砲の門(トルコ語でトプカプ)」に由来しますが、この呼び方は19世紀にスルタンが宮殿を去ってから使われるようになりました。それまでは「新宮殿」と呼ばれていたそうです。

今回はトプカプ宮殿で作られた料理について見て行きます。


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新宮殿(トプカプ)の建設は1465年に開始され、1478年に第一期の工事が完了した。最初は726人で住み始めた宮殿にはどんどんと人が増えて、17世紀の半ばには40000人が生活していたという。

宮殿で生活していた人々の食事を作っていたのが、正面玄関から奥に進んで2番目の中庭に建てられた厨房だ。中庭には厨房のほかに、調理人の住居、食材や調理器具の倉庫、礼拝用のモスクなどが整えられていたという。

厨房の面積は1500平方メートルほどで、10の部屋に分かれていた。このうちの8つの部屋で料理が作られ、残りの2つの部屋で菓子と薬が作られた。調理を担当していたのは「マトバーフ・アミレ」と呼ばれる部署で、菓子と薬を作っていたのは「ヘルヴァ・ハネ」と呼ばれる別の部署だった。

料理を作る8つの部屋には1名ずつの料理長が置かれ、その中の最年長者が総料理長を務めた。メフメト2世(在位:1451~1481年)の代の厨房スタッフの数は約100人であったが、スレイマン1世(在位:1520~1566年)の代の初めには250人を越えるようになり、終わり頃には500人に達した。さらにムラト3世(在位:1574~1595年)の代には1000人を超えたとされている。

厨房の各部屋には巨大な竈(かまど)と炉があり、8つの調理部屋ではパンやチョルバ(スープ)、ケバブ、ドルマ、ピラフ、野菜サラダ(サラタス)などの様々な料理のほかに、ヨーグルトやバター、チーズなどを使った乳製品も作られていた。

ここで、15世紀の食材の購入記録から宮殿でどのような料理が食べられていたかを見て行こう。

穀物については、莫大な量の小麦粉に加えて、コメが大量に購入されるとともにレンズマメの購入量も多かった。小麦粉は主にパンや菓子作りに使われていたと考えられる。トルコの一般的なパンはユフカと呼ばれ、コムギを水と塩でこねて発酵させずに薄く焼いて作られる。また、表面全体にゴマがまぶされたシミットもトルコの代表的なパンだ。このパンは糖蜜につけてから焼く。

コメはピラフやプディング、ドルマ、チョルバ(スープ)などの材料としてなくてはならないものだった。また、レンズマメはトルコ料理で有名なレンズマメのチョルバの材料となっていた。

肉について見てみると、最も多く購入されていた肉は第一にヒツジの肉で、トルコ民族のヒツジ好きはスルタンも民衆も共通だったようだ。それ以外によく食べられたのは、ウシ、コヤギ、ニワトリ、ハト、ガチョウなどの肉だった。
一方、魚については宮殿ではあまり食べられなかったようだが、カキ、エビ、イクラとキャビアについてはよく食べられていた。

野菜類では膨大な量のタマネギが購入されていた。これはチョルバなどの料理には欠かせない食材だったからだ。また、パセリ、キャベツ、キュウリ、ナス、ニンジン、カブ、フダンソウ(ホウレンソウの仲間)などもよく使用されていた。

料理に使う調味料としては塩のほかに、酸味料として酢、レモン汁、未熟のブドウ汁、ザクロ汁がよく使用されており、当時は酸味の強い味付けが好まれたようだ。

また、ハーブ・香辛料もよく使用されており、国内および周辺国からミント、サフラン、酸味のあるスマック、洋ガラシ、柑橘系の香りがするディルと乳香樹の樹液のサクズが取り寄せられていた。また、オスマン帝国がエジプト-インド間の香辛料貿易を掌握するようになり、大量のコショウやショウガ、シナモンが宮殿内に運び込まれて料理に使われるようになった。

次に製菓用厨房(ヘルヴァ・ハネ)を見てみよう。

ここでは様々な菓子やピクルス、ジャム、シロップ、果物を砂糖水で煮たコンポート、冷たくて甘いシャーベットや、灯りためのキャンドル、そして薬や石鹸などが作られていた。

宮殿の代表的な菓子と言えばバクラヴァだ。これは、溶かしバターを塗りながら何層にも重ねたユフカ生地(小麦粉の生地)の上にアーモンドやクルミなどのナッツ類を砕いたものと砂糖・シナモンをのせ、さらにユフカ生地を重ねてオーブンで焼き上げたものだ。

また、油で揚げた発酵小麦粉生地にシロップをかけたルクマデス(トルコ風ドーナッツ)や、サフランと砂糖の入ったプディングのゼルデ、砂糖にデンプンとナッツ(クルミ、ピスタチオ、アーモンド、ヘーゼルナッツ、ココナッツ)を加えて作るロクム(英語ではターキッシュ・デライト)なども有名な菓子だ。

漬物の仲間のピクルスもお菓子として食べられていた。最も人気があったのはキャベツのピクルスだった。それ以外には、レモン、オレンジ、キュウリ、アーティチョーク、ナス、カブからピクルスが作られた。作られたピクルスは、いつでも提供できるように漬物保管庫に保管されていた。

ヘルヴァ・ハネでは、手に入るほとんどの果物からジャムが作られていた。ジャムにされた果物には、リンゴ、ナシ、チェリー、オレンジ、ピーチ、メロン、スイカ、クルミ、レモン、カボチャ、ナス、ミュレッケプ(柑橘系の果物)、シトロンなどがあった。ジャムのほとんどは宮殿の菓子用厨房で作られたが、いくつかは外で製造されたものが持ち込まれたという。

コンポート(ホシャフ)は宮殿の重要な飲み物の1つであり、毎食の最後にコンポートを飲むのが慣習になっていた。コンポートになる果物は、ブドウ、イチジク、アプリコット、ナシだけで、ジャムよりも使用する果物の種類は少なかった。

また、果汁や花のエキスが含まれた冷たくて甘い飲み物のシャーベットもよく飲まれていた。なお、シャーベットを冷たくするために、遠く離れた高山ウル・ダーのふもとに作られた氷室から氷が運ばれてきていたという。

以上見てきたように、菓子やジャム、コンポート、シャーベットはどれも甘く、ほとんどのものに砂糖が入っていた。砂糖はナイル川流域が一大生産地になっていたが、まだとても貴重で高価なもので、民間にはほとんど出回っていなかった。宮殿は大金を使って大量の砂糖を購入することで甘味欲を満たしていたのである。

最後にヘルヴァ・ハネで作られていた薬について。

現在でも手に入るトルコの伝統薬メスィル・マージュンは、スレイマン1世(在位:1520~1566年)の母が不治の病にふせった時にレシピが献上されたもので、これを作って飲んだところ母君は見事に回復したという。

この薬には多種類の香辛料が練り込まれており、香辛料=薬という当時のイスラム世界とヨーロッパ世界に共通の医学の考え方を見て取れる。ヘルヴァ・ハネではこのように、香辛料を練り込んだキャンディーの薬を作っていたのである。

なお、オスマン帝国が香辛料貿易の支配権を獲得すると、ヨーロッパに入る香辛料に高額の税をかけるようになった。その結果、大切な薬だった香辛料をヨーロッパ人が手に入れるのが難しくなったため、ポルトガルなどがアジアとの交易航路を開発するようになるのだ。

*今回で中世は終わりです。次回から「近世の食」が始まります。


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