トウガラシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(4)
世界の人口の約4分の1の人が毎日トウガラシ類を食べていると言われています。このトウガラシ類には辛いトウガラシだけでなく、シシトウやピーマン、パプリカのようにトウガラシの品種改良から生まれた甘味種も含まれています。
一般的に熱帯などの暑い地域では辛いトウガラシをよく食べて、それ以外の地域では辛くないシシトウやピーマン、パプリカなどを食べるようです。
例えば、インドや東南アジア、アフリカ、中南米などの熱い地域ではトウガラシをたくさん使った辛い料理が多く食べられています。熱い地域で辛い料理を食べるのは、発汗を促して体を冷やすためと、食欲を増進するためと言われています。一方、ヨーロッパではパプリカなどの甘味種が主に使われ、また、辛いトウガラシが使われる時でもかなりマイルドな辛さになっています。
今回はヨーロッパにおけるトウガラシの歴史について見て行きましょう。
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「香辛料を探し求めた男たち-大航海時代の始まりと食(4)」でお話ししたように、大航海時代に海に乗り出した人々の大きな目的の一つが、香辛料を産するインドへの新しい航路を見つけることだった。コロンブス(1451年頃~1506年)のねらいも、大西洋を横断してインドに到達することだったが、アメリカ大陸が邪魔をしてしまったのだ。それでもコロンブスは生涯にわたって、自分が見つけた大陸はインドの一部だと信じていたという。
香辛料を探していたコロンブスはアメリカ大陸でトウガラシに出会う。コショウとは姿かたちがかなり違っていたが、その辛さからコロンブスはトウガラシをコショウの仲間だと思ったようだ。
現代の私たちから見るとコロンブスは大きな誤解したように思えるが、実は仕方がなかったとも言える。と言うのも、コショウの辛さもトウガラシの辛さも私たちは同じ体の仕組みを使って感じているからだ。
コショウの辛味成分の「ピペリン」も、トウガラシの辛み成分の「カプサイシン」も「痛みや熱さのセンサー分子TRPV1」に作用することで「辛い」という感覚を生み出している。TRPV1は神経細胞の表面に存在していて、ピペリンやカプサイシンが結合すると神経細胞を興奮させることで、「辛い」という感覚を生み出すのだ。このため、トウガラシを食べたコロンブスがコショウと同じ辛さだと思っても仕方なかったのだ。
なお、ピペリンとカプサイシンの作用の仕方は少し異なっていて、カプサイシンの作用は低い濃度から高い濃度にかけて徐々に強くなるのに対して、ピペリンは低い濃度ではほとんど作用せず、ある濃度以上になると急激に作用が強くなる。これが両者の辛さの違いになっているのかもしれない。
話を歴史に戻そう。コロンブスはスペイン-アメリカ大陸間の航海を4度行っているが、1493年の2度目の航海の時にスペイン王のためにトウガラシを持ち帰った。これがトウガラシがヨーロッパに持ちこまれた最初とされている。その後、トウガラシはヨーロッパ各地、特に南ヨーロッパで栽培が広がって行った。
1542年に出版されたドイツの植物学者レオンハルト・フックスの著書にはトウガラシの植物全体のスケッチとともに説明が記されている。また、1585年の記録には、スペインとチェコで栽培されていることが記されている。
インドや中国などのアジア地域やアフリカには、ポルトガルが開拓した航路によってトウガラシが広まって行った。1593年の記録には、インドのカリカットやインドネシアのモルッカ諸島(香辛料諸島)でトウガラシが栽培されていることが記されている。日本でも、奈良の僧侶の日記である『多聞院日記』に1593年にトウガラシを育てたとの記述が残されている。
ヨーロッパで最初にトウガラシを熱烈に受け入れたのがハンガリー人だ。ハンガリーにはオスマン帝国を経由してトウガラシが伝えられたが、その経緯は次の通りだ。
ハンガリーは1541年から東南部と中部をオスマン帝国によって、また北西部をオーストリアによって分割支配されていた。オスマン帝国は一時期インドのポルトガル支配地を奪ったのだが、その時にインドからトウガラシを持ち帰り、これをハンガリーに伝えたのだ。
どうもハンガリー人は辛いものがとても苦手なようで、トウガラシが伝えられた当初は辛いトウガラシを我慢して食べていたという。彼らは辛味成分が濃縮しているトウガラシ内部の隔壁と呼ばれる部分を丁寧に取り除くという涙ぐましい作業もしていたらしい。
一方でハンガリー人は、品種改良の努力も続けていた。そして18世紀になって、辛くない「パプリカ」を生み出すに至るのである。まさしく「必要は発明の母」と言える。ちなみにパプリカではカプサイシンを作り出す時に働く最後の酵素が壊れているため辛くならないのだ。
最も代表的なハンガリー料理であるグヤーシュには、パプリカの粉末がたくさん使用されていて、独特の風味が楽しめる。グヤーシュは日本の味噌汁のような存在で、本来は牛肉と野菜が具だったが、最近では何の肉を入れても良いらしい。ちなみに、グヤーシュのグヤは牛の群れを意味している。
トマトと同じように、イタリアではトウガラシもナポリに最初に伝わった。1526年のこととされている。これは当時のナポリがスペインによって支配されていたからだ。
イタリアのトウガラシ料理と聞いて日本人が最初に思い浮かべるのは「ペペロンチーノ・スパゲティ」と言われている。これは正式名称を「スパゲティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」と言う。
アーリオはニンニク、オーリオはオリーブオイル、ペペロンはトウガラシを意味し、ゆでたスパゲティをにんにくとオリーブオイル、そしてトウガラシだけで調理したものだ。元々「スパゲティ・アーリオ・オーリオ」というものがあり、これにトウガラシを加えたものをスパゲティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノと呼ぶのだ。
ところで、イタリア人も一般的に辛さに弱いらしく、イタリアで日本人がペペロンチーノ・スパゲティを食べると、辛くなくて物足りなさを感じるらしい。また、日本でイタリア人がペペロンチーノ・スパゲティを食べると、辛すぎて閉口するという。
しかし、ブーツ型のイタリア半島のくつ先に位置するカラブリア州はトウガラシの産地として有名で、住民は大のトウガラシ好きで知られている。カラブリアでは「ンドゥイア」と言うトウガラシの入ったペースト状のサラミなど、伝統的な保存食が現代でも作られている。
スペインの北部中央からフランスの南西部にまたがるバスク地方の人々は航海術に優れていたため、大航海時代には船乗りとして重用されていた。バスク人はコロンブスの航海にも参加していて、彼らがトウガラシを故郷に伝えたと言われている。
こうしてバスク地方はトウガラシの一大生産地へと成長したのだ。中でもフランス領の町エスプレットは、トウガラシの品種名にもなっているほど有名なトウガラシ産地で、毎年秋に「トウガラシ祭り」が開催されるほどだ。
真っ赤なトウガラシ「エスプレット」は甘い香りがして、粉にしたものがバスク料理に欠かせない食材となっている。エスプレットを使った代表的な料理が「アショア」で、子羊や子牛のミンチ肉と刻んだ野菜やニンニクをエスプレットとともに煮込んだものだ。
ところで、現代のイギリスやオランダ、ドイツではトウガラシ料理はほとんど食べられない。この理由は宗教にある。トウガラシがヨーロッパに広まった頃はカトリックとプロテスタントの争いが激しい時で、トウガラシを伝えたスペインがカトリック国だったため、当時プロテスタント国だったイギリスやオランダ、ドイツ(プロイセン)がトウガラシを受け入れなかったのだ。
宗教は食の世界に大きな影響を与えるものである。