食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ニシンとハンザ同盟とオランダ-中世後期のヨーロッパの食(3)

2020-12-24 23:19:34 | 第三章 中世の食の革命
ニシンとハンザ同盟とオランダ-中世後期のヨーロッパの食(3)
もう少しで今年も終わりますね。大みそかには年越しそばを食べる人も多いと思いますが、年越しそばも地域によって様々に変化するようです。ちなみに、私は京都出身なので、年越しそばは「にしんそば」になります。京都南座の松屋が明治15年に始めた「にしんそば」が大評判になり、いつしか京都では年越しそばとして食べられるようになったということです。

さて、ニシンですが、中世の庶民にとって魚と言えばニシンだったと言われています。その理由は、北の海でニシンがたくさん獲れたからです。

中世ヨーロッパでニシンの加工や輸送に活躍したのが「ハンザ同盟」とオランダでした。今回はこのニシンとハンザ同盟、そしてオランダのお話です。



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ニシン(鰊)は寒い海に生息し、大きな群れを作って回遊しながら一生を過ごす魚だ。多い時には一つの群れに30億匹以上がいる場合もあると言われている。

ニシンは春先の産卵期には海岸近くにやってきて、一帯の海を埋め尽くすこともある。北海道では海岸にやって来たニシンの大群が産卵・放精することで海がミルクを流したように白く濁ることがあり、この様子を「群来(くき)」と呼んでいる。

唐太の 天ぞ垂れたり 鰊群来(山口誓子)

このようにニシンは大群を作って行動することから、群れを見つけることができれば大量に捕まえることができるのである。

中世盛期以降にキリスト教がヨーロッパ全域に広まると、多くの人が断食を行うようになった。もともとは断食日には肉や魚を食べてはいけなかったが、やがて魚を食べても良い日となり、さらに積極的に魚を食べる日へと変化して行った。特に、2月から3月にかけて始まる46日間の四旬節(しじゅんせつ)の断食期間には人々は大量の魚を食べたのである。

このような魚の需要を満たしたのがニシンであり、のちほど話題に挙げるタラだった。

ところで、ニシンは油が多い魚で、すぐに酸化して悪くなってしまう。言い伝えによると、1350年頃にオランダのヴィレム・ブッケルゾーンがニシンを樽詰めにする方法を発見したとされる。これは、ニシンを釣ったらすぐに内臓を取り除き塩水につけ、干さないでそのまま樽に詰めて保存するというものだ。こうすることで1年以上の保存が可能となった。

しかし、ヨーロッパの人々の大量の需要にこたえるためには、大規模な加工処理と輸送手段が必要だった。これを担ったのが「ハンザ同盟」である。

ハンザ同盟とはバルト海沿岸や北ドイツの商業都市による同盟のことで、この同盟の中心となるリューベックとハンブルグが1241年に結んだ商業同盟が始まりとされている。この商業同盟に他の商業都市が加わることでハンザ同盟は拡大してゆき、14世紀の全盛期には加盟都市が200を越えるまでになる。ただし、同盟と言っても強固なものではなく、困った時にお互いに助け合うといったゆるいつながりだったらしい。



リューベックはニシンの樽詰めを作るには絶好の位置にあった。すぐ近くのバルト海にニシンの大群が押し寄せて来るし、加工に必要な塩を産出するリューネブルクという町がすぐ近くにあったのだ(と言っても80km離れている)。リューベックはリューネブルクからバルト海方面に輸出される塩を独占し、一帯のニシンの加工と交易を掌握した。ちなみに、ニシン漁をしたのはデンマークの漁師であり、リューベックのドイツ人はそれを受け取って加工と輸送を行ったのである。

やがて他のハンザ同盟の海岸都市もリューベックにならってニシンの樽詰め作りに精を出すようになる。こうしてハンザ同盟はニシンの交易を独占するようになったのだ。

ハンザ同盟はニシン以外にも多くの物品の交易を行ったが、穀物や蜂蜜、塩、ワイン、木材、毛皮などの生活必需品が多かった。前回お話ししたドイツ東方地域で生産された穀物の交易を独占していたのもハンザ同盟で、13世紀後半からイングランドやノルウェーなどの冷涼な地域では、このドイツ東方地域の穀物が無くてはならないものになった。

生活必需品は価格の低さの割にかさばるものだ。このため、儲けを増やすためには大量の物品を運ぶ必要がある。ハンザ同盟の交易で活躍したのがコグ船と呼ばれる船で、この船の中間部分の船底は平らになっていて、荷物をたくさん積むことができる。また、マストが1本で帆が1枚しか無いため少人数で操船が可能だった。

14世紀になるとハンザ同盟の商人たちはドイツから離れたスカンジディナビア半島のスウェーデンに移住してニシンの大量確保を行った。この移住によってストックホルムなどの都市が発展したと言われている。

ちなみに、「世界一臭い食べ物」と言われる塩漬けニシンの缶詰「シュールストレミング (surströmming)」はスウェーデンのものだ。この塩漬けニシンは、塩が高価だったため少なめの塩を使って作られた。その結果、発酵が止まらず異臭を発生するようになるのだ。

さて、理由は不明だが、ニシンは時折回遊ルートを大きく変えることがある。9世紀頃に活発になるヴァイキングの襲来は、ちょうどその頃にニシンの回遊ルートが変わって漁獲量が落ちたからだという説がある。

1420年頃になると、それまでハンザ同盟がニシンを得ていたバルト海でニシンの産卵が減少し始めるのである。そして16世紀になるとニシンの群れは完全に北海に移動してしまった。北海はオランダの目の先で、歓喜したオランダ人はニシンを獲りまくるようになる。

バルト海では沿岸部にやって来たニシンを捕まえて浜で加工を行っていたが、オランダ人は沖でニシンを捕まえて船の上で樽詰めの加工を行った。そのために平らなデッキのついた船を使ったと言われている。

このように獲れたニシンを新鮮なままで素早く加工すると、高品質の樽詰めニシンができる。さらにオランダでは政府主導で樽詰めニシンの徹底した品質管理が行われたため、諸外国に比べて圧倒的に高品質の商品を生産できるようになった。

このオランダのニシン産業の興隆がハンザ同盟の衰退の一因になったとされている。


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