ギリシアからローマへ
ここで、地中海の中心が古代ギリシアから古代ローマへ移る過程を概観しておこう。
古代ギリシアは統一国家ではなく、個々が独立した都市(ポリス)が宗教と言葉を礎にしてゆるやかに集まったものだった。ポリスごとに産業形態や政治形態、軍事力などが異なっているため一概に述べることが難しい。
古代ギリシアで有名なポリスと言えば、アテネ(アテナイ)とスパルタだ。
アテネはギリシア南部に比較的広い耕作地を有するとともに、サラミスと言う良港を使って海外貿易を行うことで繁栄した。最盛期には12万人もの市民がいたと言われる。また、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの思想家が活躍した地としても有名だ。
一方、スパルタもギリシア南部のポリスで、強力な陸軍を持っていた。子供のころからスパルタ教育と呼ばれる厳しい軍事教育を行っていた。
アケメネス朝ペルシアが紀元前525年にエジプトを征服し、さらに勢力を東方に伸ばしてきたことから、これを撃退するためにアテネとスパルタは手を結び戦争を起こす。これがペルシア戦争(紀元前500~前449年)である。
マラトンの戦い(紀元前490年)では、小型の盾と槍を持ち密集形態を作ったアテネの重装歩兵が、騎馬と弓を持ったペルシア軍をさんざんに打ち負かす。その後のサラミスの海戦(紀元前480年)でも、アテネはペルシア海軍の船を策略で狭い水道におびき寄せ、急遽建造した三段櫂船で突撃を行うことで撃破した。最終的にペルシアはギリシアと和平条約を結び、ペルシア戦争は終結した。
このように、ペルシア戦争ではアテネの功績が高かったことから、これ以降はアテネがポリスの中心的な存在になって行く。また、貧しかった一般市民が戦争に参加することで社会的地位が向上し、アテネの民主化が進んだ。
アテネは、ペルシアへの備えとしてエーゲ海域のポリスを集めてデロス同盟を設立し、その盟主となった。一方、スパルタは近隣地域のポリスとペロポネソス同盟を作り盟主となっていた。
次第にこの二つの同盟間の対立が深刻になり、紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発する。アテネは疫病や優秀なリーダーの不在等の理由によってスパルタに敗北し、戦争は紀元前404年に終わる。
この27年間に及んだ戦争が、古代ギリシア崩壊の原因となった。すなわち、戦争の長期化によって市民が没落するとともに衆愚政治が進み、民主制が崩れていった。また、スパルタがペルシアと手を結んでいたため、ペルシアのギリシアへの干渉が強まった。
一方、北方ではマケドニアが急速に台頭し、紀元前338年にポリス連合軍を打ち破る。その後は各ポリスにマケドニア人が駐留することになり、ポリス共和制の時代が終了した。
ギリシアの西方では、ローマが紀元前2世紀までにイタリア半島を統一する。そして、紀元前168年にマケドニアを滅ぼし、さらに紀元前86年にはついにアテネを征服した。こうしてアテネの独立都市としての歴史は終わりを告げた。その後ギリシアはローマ帝国の属州として支配されることとなる。