食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)

2021-07-16 17:50:27 | 第四章 近世の食の革命
近世パリの人口とフランスの農業-フランスの大国化と食の革命(5)
今回から近世のフランスの食事情について見て行きます。

この時代の最大のトピックは、絢爛豪華で濃厚な味わいのフランス料理の原型が生み出されたことです。単に見栄えだけでなく、現代のフランス料理でとても重要な「ソース」や「フォン(だし汁)」の作製法が進化したのです。

また、フランス料理はワインを飲むために食べると言われるように、フランスではワインは非常に重要な飲み物ですが、近世のフランスではワインの世界でも大きな変化が生まれました。発砲ワインのシャンパーニュ(シャンパン)が飲まれ始めたのもこの時代です。

このように、食の話題に事欠かない近世のフランスですが、今回は、パリの人口の推移を皮切りに、近世のフランスの食料生産について見て行きます。

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図は西暦1000年から1850年までのパリの人口(推定値)について見たものだ。なお、フランス全体を見た場合でも、パリの人口と同じような推移を示していたと考えられている。

さて、この図を見てみると、中世の1300年まではパリの人口は順調に増加しているのが分かる。これは、気候の温暖化と三圃制農業の普及などによって食料の生産量が増えたためと考えられている。食べ物があると数が増えるのは動物も人も同じと言うわけだ。

ところが、1300年を過ぎると人口の増加のペースが鈍る。これは19世紀半ば頃まで続く寒冷化の影響と考えられる。この寒冷化の期間は小氷期と呼ばれていて、その原因としては火山の噴煙で巻き上げられたチリによって日光がさえぎられたからと言う説や、太陽の活動が低下したため地球に届く日光が減少したからと言う説が唱えられている。この寒冷化の結果、14世紀前半にはヨーロッパ各地で飢饉が相次ぎ、人口の増加が鈍ったのである。

さらに、1348年から発生したペスト(黒死病)が追い打ちをかけた。食料不足で体力が落ちていたため、抵抗力が下がっており、多くの市民が命を失ったのである。その結果、パリの人口の3分の1以上が失われたと見積もられている。

また、1337年から1453年まで断続的に続いた英仏間の百年戦争も、人口の減少や人口が伸び悩んだ原因になったと考えられる。

百年戦争が終わると、人口は再び増え始めた。しかし、1600年にかけて減少する。これは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の間で行われた内戦(ユグノー戦争)によるものだ。以前にお話しした通り、この内戦を収束させたのが、ブルボン朝初代フランス王アンリ4世(在位:1589~1610年)だ。

その後、パリの人口は急激に増えたが、17世紀半ば頃からは緩やかな増加に転じる。その理由は、ヴェルサイユ宮殿に王族や貴族が移り住んだことだ。この引っ越しにともなって、多くの商人や職人もパリからヴェルサイユ宮殿の近くに移住したことから、パリの人口の伸びが抑えられたのである。

そして、18世紀の終わりにはフランス革命が起こり、パリの人口も減少する。なお、その後の急激な人口の増加は、工業革命(産業革命)によるものだが、それについては次章の近代で取り上げる予定だ。

さて、フランスは今も昔も農業国だ。近世の頃には国民の80%以上が農業にたずさわっていたと見積もられている。アンリ4世の財務大臣だったにシュリーは「農耕と牧畜はフランスをはぐくむ二つの乳房である」と主張して農業を奨励した。このように農業を重視する姿勢は、それ以降の時代でも変わらなかった。

こうしてフランス国民に食料を提供し続けた農業であるが、近世の間に農業革命と呼べるほどの大きな技術革新があったわけではない。増え続けた人口を支えたのは、耕作地と牧草地の拡大や貿易の発展による食料の輸入増、そして何よりもアメリカ大陸から持ち込まれた新しい作物だった。

アメリカ大陸の発見により、ヨーロッパにはトウモロコシジャガイモなどの新しい作物がもたらされた。重要な点は、これらの作物の栽培時期がコムギのものとずれているため、休耕をせずに作物を育て続けることができる点だ。その結果、食料生産量が増えることとなったのだ。

トウモロコシは17世紀の後半にスペインとの国境近くのアキテーヌ地方に持ちこまれ、18世紀にはその一帯で広く栽培されるようになったとされている。また、ジャガイモは1600年前後にフランスに持ちこまれ、フランス北部を中心に栽培が徐々に広がって行った。

ただし、最初の頃はトウモロコシとジャガイモは主に家畜のエサとして利用されていた。2つとも牧草に比べて栄養価が高く、家畜をより太らせることができるので、畜産にはとても役立った。なお、既にお話ししたように、パルマンティエの努力の結果、フランスでは18世紀の後半になって食用としてジャガイモが利用されるようになって行った。

一方、見逃してはならないのが18世紀になって耕作や放牧の地域化が進んだことだ。ブドウ栽培とそれにともなうワイン生産はその典型的な例で、18世紀にボルドー・ブルゴーニュ・ボジョレー・ラングドック・プロヴァンスなどの、現代でもワインで有名な地域でブドウとワインの生産量が大幅に増加した。

また、北部のノルマンディー地方と中部のリムーザン地方やシャロレー地方は牛の大規模な放牧地となり、たくさんの肉や乳製品をパリの市場に供給するようになったと言われている。

ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)

2021-07-14 23:23:39 | 第四章 近世の食の革命
ルイ16世とフランス革命-フランスの大国化と食の革命(4)
本日7月14日はフランスの革命記念日です。1789年の今日にパリの民衆はバスティーユ監獄を襲撃し、陥落させました。これがフランス革命の発端となったため、この日を記念日としているわけです。

フランスでは「フランス国民祭典(Fête nationale française)」と呼ばれ、様々な催し物が執り行われます。祭典が行われるようになったのは1880年からで、この日は「自由・平等・友愛」の共和政の始まりの象徴となっています。

なお、パリ祭という言い方がありますが、これは日本だけの呼称で、日本以外では使われません。

さて、今回はフランス革命が起こった時にフランス王だったルイ16世を取り上げます。

通説では、ルイ16世は優柔不断な性格をしていたためにフランス革命が起きてしまったとされていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。


       ルイ16世
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ルイ15世は1774年5月に天然痘で亡くなったとされている。59年の治世だった。

次に即位したのが、ルイ15世の孫のルイ16世(1754~1793年、在位:1774~1792年)だ。ルイ15世は政治に関心が薄かったが、ルイ16世も同じように政治にあまり興味を示さなかったと言われている。

ルイ16世と言えば、悲劇の王妃マリー・アントワネット(1755~1793年)を妃としたことでも有名だ。ルイ16世は祖父のルイ15世とは異なり、生涯にわたって愛人を持つことはなかった。


    マリー・アントワネット

ルイ16世はブルボン朝の王の中でもっとも大食いと言われており、朝起きると鶏肉料理と仔牛肉のカツレツ(コートレット)を平らげたらしい。それでも食べ足りない日には、卵料理とシャンパンをまるまる1本飲んだと伝えられている。専用の馬車にはパンやワイン、干し肉などが常備してあったらしい。

ただし、彼の食べ方は美しくなく、何でも手づかみで食べたし、食べ終わった肉の骨は周りに投げつけたという。

一方のマリー・アントワネットの好物が「クーグロフ」というお菓子だ。発酵させた小麦粉の生地に干しブドウなどを入れて専用の型で焼いたものに粉砂糖をまぶして食べる。アントワネットは毎日のように食べていたと言われている。


    クーグロフ

ルイ16世は政治に関しては宰相に任せていたのだが、フランスは憎きイギリスに打撃を与えるために、北アメリカのイギリス植民地で始まったアメリカ独立戦争(1775~1783年)に加担することになった。最初は財政面や物資面での援助だけだったが、やがてフランス軍を派遣してイギリスの拠点を制圧し、アメリカの独立を成功に導いた。

その結果、フランスの国際的な地位は向上したが、実利はほとんどなかったため、莫大な借金を抱え込むことになってしまった。ルイ15世の代から引き継いだ借金を合わせると、利息だけで国家予算がとんでしまうぐらいのとんでもない借金だったと言われている。

借金を返すためには税収を増やすしかなかった。そこで財務卿のネッケルは、世論を味方につけようとして、1781年にフランス財政の現状を報告書にまとめて世間に発表した。ところが、この報告書が大きな波紋を生み出すことになった。戦費はぼかして書かれていたのに対して、宮廷費は事細かに記されていたのだ。これを見た民衆は、借金の一番の原因は王家の贅沢だと考えてしまったのである。特にマリー・アントワネットに批判が集中した。普段の派手な振る舞いが問題になったのだ。ネッケルは責任をとって辞任した。

そんな時に有名な詐欺事件が起こる。1784年に起きた「王妃の首飾り事件」だ。これは、ある伯爵夫人が、王妃が欲しがっていると言って宝石商から首飾りをだまし取り、さらにその代金を枢機卿からもだまし取ろうとしたものだ。宝石商が王妃に代金を請求して、伯爵夫人の詐欺行為が発覚した。

王妃は被害者だった。しかし、民衆はそうは取らずに、王家のもみ消しだと考えたのである。その結果、ますますマリー・アントワネットの人気は凋落することとなった。さらに、ルイ16世も人気を失った。愛人を作らずにマリー・アントワネット一人だけを愛しているのだから、同罪と言うわけだ。

1786年に新しい財務卿は、ルイ16世に土地に税金をかけることを提案した。そうなると困るのは聖職者や貴族たちで、反発は必至だった。紆余曲折あったが、最終的にルイ16世は、聖職者や貴族たちに対抗するために、1789年に聖職者・貴族・平民で構成される「三部会」を招集し、ここで税の問題について議論しようとした。

ところが、王のなすべきところは平民部会を助けることだったのに、結局のところは貴族たちの肩を持ってしまった。これで平民たちは反発を強め、国民議会という組織を立ち上げる。そして、球戯場に集まって国民のための憲法が制定されるまで国民議会は解散しないと宣言した。

この頃には、以前に財務卿だったネッケルが再び財務卿に就任していたのだが、その彼をルイ16世が更迭した。実はネッケルは庶民にすごく人気がある人物で、この更迭に怒りを爆発させた民衆が蜂起する。こうしてフランス革命が開始され、7月14日にバスティーユ要塞を襲撃したのである。

国王軍との戦いに勝った革命軍は、8月26日に「自由・平等・友愛」が明記された人権宣言などを提出する。こうしてフランスで貴族的特権は消失し、国民全員が自由で平等になった。

それでも革命の流れは止まらない。食糧難でパンが無いと嘆いたパリの女性たちは、集団となってヴェルサイユ宮殿に押し入り、ルイ16世一家を引きずり出してパリに移住させるという事件が起きる。ルイ16世一家は窮地を脱するために逃亡劇も繰り広げたが、これは失敗に終わった。

1791年には立憲君主制を定めた憲法が制定された。しかし、この憲法では国王の強力な拒否権が定められていたため、議会とルイ16世はことごとく対立するようになる。さらにオーストリアやプロイセン、ロシアが自国の王政への影響を恐れて、ルイ16世の絶対王政を復活させるための戦いを仕掛けてきた。この戦いにフランス軍は敗戦を重ねてしまう。フランスは絶体絶命の窮地に追い込まれたのだ。

ここで急進派の市民が王の失権を要求して動き出した。議会を掌握し、王を捕らえて王政の廃止を宣言したのだ。また、諸外国との戦いもフランス軍優位に傾いて行った。

捕らえられたルイ16世は裁判にかけられ死刑判決が下された。そして1793年1月21日に断頭台の露と消えたのである。王妃のマリー・アントワネットも、同じ年の10月に夫と同じ運命をたどった。

次回からはフランス・ブルボン王朝時代の食について詳しく見て行きます。

ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の革命(3)

2021-07-13 20:13:24 | 第四章 近世の食の革命
ルイ15世とポンパドゥール夫人-フランスの大国化と食の革命(3)
本ブログとは全く関係ありませんが、現在フランスでは自転車レースの「ツール・ド・フランス」が開催されています。ツール・ド・フランスは100年以上の歴史がある大会で、数あるロードレースの中でも最高峰のレースと言われています。

今大会で大きな話題となっているのが、1970年代にエディ・メルクスと言う選手が打ち立てた最多勝記録にマーク・カヴェンディッシュと言う選手が並んだことです。ツール・ド・フランスは通常21のレースで構成されていて、そのうちの1つのレースで勝つと1勝と数えます。現在の最多勝は34勝となっていて、果たしてカヴェンディッシュ選手が最多勝を塗り替えることができるのか、注目が集まっています。

さて、今回はルイ15世(在位:1715~1774年)を取り上げます。

ルイ14世(在位:1643~1715年)の代にヴェルサイユ宮殿を中心とした絢爛豪華な文化が花開きますが、王が年老いるとともにその輝きは月並み化して行きます。いわゆるマンネリ化が進んだのです。そこに新しい風を吹き込んだのがルイ15世の公妾(こうしょう)のポンパドゥール夫人でした。彼女のおかげでヴェルサイユ宮殿は再び輝きを取り戻すのでした。

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ルイ15世(在位:1715~1774年)はルイ14世の曾孫(ひまご)にあたる。ルイ14世があまりにも長生きであり、その間に王位継承者のほとんどが亡くなってしまったため、わずか5歳で国王となったのである。

ルイ15世は歴代のフランス王の中で一番の美男子と言われており、また、その体格も大変立派だったとされている。このため、幼少の頃よりとても人気があり「最愛王(le Bien-Aimé)」と呼ばれた。


     ルイ15世

ルイ15世の即位後から成人(当時のフランスでは満13歳)までは、ルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が摂政として政治を取り仕切った。オルレアン公はそれなりに優秀であり、財政再建などを成功させている。

成人した1723年からは、自らが政治を行う親政を開始した。と言っても、実のところは宰相を置いて、政務のほとんどを任せていたという。なお、即位後のルイ15世の居城はパリにあったが、成人前にはルイ15世の希望によって20kmほど離れたヴェルサイユ宮殿に戻された。

ルイ15世の日常の食生活では、朝起きるとカップ1杯のミルクを飲んだ。昼食も夕食もよく食べ、ポタージュを必ず2品と、羊や仔牛、野鳥のロースト、そして果物を好んで食べたと言われている。

ルイ15世は1725年には7歳年上のポーランド王女のマリー・レグザンスカと結婚した。そして1727年の双子の王女の誕生を皮切りに、10年の間に11人もの子供を授かった。

ルイ15世は1733年にレグザンスカの母国ポーランドの王位継承問題に介入し、最終的に現在のフランス北東部にあるロレーヌをフランス領とした。また、1741年からは、神聖ローマ帝国の皇帝位を巡って国際戦争となったオーストリア継承戦争(1740~1748年)に、ハプスブルク家の弱体化のために参戦した。この戦争では、ハプスブルク家のマリア・テレジアの夫が皇帝となる代わりに、オーストリアの一部の領土がプロイセンのものとなった。ルイ15世の目論見通りだった。

しかし、国土奪還に燃えるマリア・テレジアは、前回は敵に回ったフランスと同盟を結び、1756年からプロイセンとの戦争を開始した。プロイセン側にはイギリスが付き、フランスとイギリスの戦いは北アメリカの植民地でも行われた。結果は、プロイセン・イギリスの勝利となり、プロイセンの勢力が拡大するとともに、北アメリカのほとんどがイギリス領となった。一方、フランスはこの戦いのために大きな借金を抱えることとなり、次のルイ16世の代のフランス革命(明日の7月14日が革命記念日!)のきっかけになったと言われている。

さて、11人の子供を産んだマリー・レグザンスカは、もうこれ以上子供を産むのは嫌だと言って夫婦生活を拒否するようになった。そこでルイ15世は愛人を作るようになる。愛人と言っても公式に認められた制度であり、「公妾(こうしょう)」と呼ばれて必要な費用も宮廷費で賄われた。なお、公妾になるには既婚者である必要があったため、良い女性を見つけると名目上は貴族の夫人にして、宮殿に住まわせた。

ルイ15世の公妾として最も有名なのがポンパドゥール夫人である。彼女は1745年から亡くなる1764年までヴェルサイユ宮殿を取り仕切ることになる。


    ポンパドゥール夫人

ポンパドゥール夫人は豊かな平民であるブルジョワ階級の出身であり、資産家だけでなく、文化人や芸術家とも交流があった。その頃の新しい文化はブルジョワ階級がパトロンとなることで発展しており、彼らが主催したサロンに多くの文化人や芸術家が集まってきていたのである。ポンパドゥール夫人はこの最先端の文化をヴェルサイユ宮殿に持ち込んだのだ。

ヴェルサイユ宮殿の人々もこれを歓迎したと言われている。代わり映えしない宮殿文化が彼女のおかげで輝きを取り戻して行ったからだ。

ポンパドゥール夫人は、身に付けるドレスや靴、装飾品、そして髪型を最先端なものにして行った。それを見たヴェルサイユ宮殿の人々も夫人のマネをしたという。

また、服飾だけでなく、邸宅の建設にも手を出し、現在フランス大統領の官邸となっているエリゼ宮などを建てた。さらに、大きな工房を建設し、「セーヴル磁器」と言うすばらしい磁器を生み出すことに成功した。

ポンパドゥール夫人はルイ15世を喜ばせるために、料理にも大きな関心を寄せたと言われている。仔羊の薄切り肉をトリュフと一緒にブイヨンで煮た「仔羊のタンドロン太陽風」などの料理を考案したと言われている。また、「フランスパン」と私たちが呼んでいる、バゲット型のパンの原型を作ったのも彼女だと伝えられている。

一方、彼女に刺激を受けたヴェルサイユ宮殿の料理人たちも彼女のために新しい料理を作り出して行った。こうして新しく生まれた料理は「ポンパドゥール風」と付けられた。

ポンパドゥール夫人にはシャンパンをほめたたえたり、ブルゴーニュワインをヴェルサイユ宮殿から一掃したりなどワインに関する話題も多く残されているが、それについてはまた回を変えてお話したいと思う。

1764年にポンパドゥール夫人が亡くなってしばらくすると、娼婦上がりのデュ・バリー夫人を公妾とした。ちなみに、漫画の「ベルサイユのばら」には、オーストリアからフランス王太子に嫁いできたマリー・アントワネットが、元娼婦のデュ・バリー夫人をすごく嫌うという逸話が描かれている。

ルイ15世がデュ・バリー夫人を公妾としていた頃に好んで食べていた食材にカリフラワーがある。そこで、カリフラワーが入った料理には、愛するデュ・バリー夫人の名を入れた「デュ・バリー風」と付けられるようになった。例えば、「コンソメ デュ・バリー風」とは、卵で固めたカリフラワーを浮き身としたコンソメスープのことだ。

実は、ルイ15世も料理好きで、公妾のためにオムレツを作ったり、ひばりのパテなどを作ったりしたと記録されている。また、コーヒーをいれるのもうまく、女性と喧嘩しても、「余がコーヒーをいれてやろう」と言って女性の機嫌を取って仲直りしたと言われている。かなりマメな王様だったようだ。

ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の革命(2)

2021-07-11 00:01:13 | 第四章 近世の食の革命
ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の革命(2)
前回はアンリ4世の話をしましたが、彼は恋多き男で、生涯を通じて73人もの愛人を作ったと言われています。また、最初にアンリ4世が結婚したシャルル9世の妹のマルゴも数々の男性遍歴で知られた人でした。つまり、お互いに似たもの同士だったのです。

しかし、二人には大きな問題がありました。それは二人の間に子供ができなかったことです。フランスで王位継承権を持つのは王と妃の間に生まれた男子なので、このままでは我が子に王位を譲ることができません。そこでアンリ4世はマルゴと離婚して、新しい妃を迎えることにしたのです(ただし、カトリックでは離婚は認められていないので、ローマ教皇に頼んでマルゴとの結婚を近親婚と言う形で無効にしてもらいました)。

こうして選ばれた次の妃は、メディチ家出身のマリア・デ・メディチ(仏:マリー・ドゥ・メディシス)でした。マルゴの母親もメディチ家出身でしたので、マルゴの親戚が妃になったというわけです。

そして1601年には待望の王太子が生まれますが、この子が9歳の時にアンリ4世は亡くなってしまったのでした。

今回はこうして誕生したルイ13世とその息子であるルイ14世について見て行きます。

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アンリ4世の後を継いだのは息子のルイ13世(在位:1610~1643年)だ。彼が王に即位したのは若干9歳であったことから、母のマリー・ドゥ・メディシスが摂政となり政治を取り仕切った。彼女が行った最も重要な出来事が、ルイ13世とスペイン王女アンヌ、そしてフランス王女エリザベートとスペイン王太子フィリップ(のちのフェリペ4世)の結婚である。これによってカトリック国同士の関係が強まることとなった。

しかし、次第に母子の関係が悪くなって、お互いに争うようになり、そして最終的にルイ13世は母を排除した。母に代わって政治に参加したのが宰相のリシュリューだった。彼は辣腕をふるってユグノーの反乱などを鎮めるなどして、アンリ4世から受け継いだフランク王国を盤石なものにして行った。こうしてフランスの絶対王政の基礎が固まって行くのである。

また、ルイ13世とリシュリューは、神聖ローマ帝国内のプロテスタントの反乱から始まった三十年戦争(1618~1648年)にプロテスタントを支援する形で介入を行った。これはスペインと神聖ローマ帝国を治めるハプスブルク家の力をそぐために行われたものだ。アンリ4世にならって、ルイ13世も宗教ではなく、国益を第一に考えた政策決定が行ったのである。

ここで、ルイ13世の食に関する逸話を紹介しておこう。

ルイ13世は狩をするのが大好きで、また大食漢だった。狩で獲れた鳥獣はその場で料理してパリ産のワインとともに平らげたと言われている。また、油で漬けたトリュフが大好物だったらしい。

自ら料理を作ることもあったらしく、10歳の時に公爵夫人のためにミルクポタージュを作ってあげたという記録が残っている。10歳の王が料理を作っている姿を思い浮かべると、何とも微笑ましい気分になる。

それ以外には、オムレツが得意料理だったことや、ジャムを作ったり、揚げ物を作ったりしたことが知られている。

そんなルイ13世は1643年に結核にかかってしまい、急逝してしまう。そして、4歳8か月の息子のルイ14世(在位:1643~1715年)が即位した。なお、彼の時代にフランスの絶対王政が確立し、国内は安定した状態になる。そして、食文化を含めて、新しいフランス文化が形作られて行くのである。


       ルイ14世

ルイ14世の少年期を支えたのが宰相のマザランだ。しかし、即位後間もないルイ14世とマザランに危機が訪れる。ハプスブルク家との戦争のための増税に反発して、1648年に民衆の反乱が勃発したのだ。これは貴族まで飛び火してフランスは混乱を極める状態になった。それでもマザランはこれを何とか鎮めることに成功する。

フランスとスペインの戦いは続いていたが、長引く戦争のため双方ともに疲弊していて、お互いに終戦の機をうかがっていた。ここでマザランはルイ14世の結婚問題を持ち出す。マザランはルイ14世をスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサと婚約させることで、スペインとの戦争を終了させたのだ。こうして二人は1660年に結婚した。

1661年にマザランが死去すると、ルイ14世は自らが政治を行うと宣言したと言われている。実際には財務と軍務を優秀な官僚に任せて、自身は戦争に明け暮れた。

優秀な官僚の一人である財務担当のコルベールは、地方の税金などを王直属の官僚が徴収する制度を確立した。こうすることで貴族によるピンハネを防ぎ、王に入る金を増やしたのだ。

また、コルベールは保護貿易によって他国の船が込んで来る商品を締め出すことで、自国の海外貿易を発展させた。さらに、東インド会社や西インド会社などを設立して植民地経営を活発化させた。こうして、フランスの国力が高まるとともに、絶対王政が確立して行ったのである。

ルイ14世と言えば「ヴェルサイユ宮殿」である。ヴェルサイユには父のルイ13世紀が狩場としていた森があったが、庭園とちょっとした屋敷が建っていただけだった。ところが、そこを訪れたルイ14世がヴェルサイユを気に入ったのだ。そして、1661年からまずは庭園を整備した。さらに1668年からは宮殿の建築を開始した。1677年になると、ルイ14世ら王族はヴェルサイユ宮殿に定住すると大体的に発表し、さらなるそ拡張工事を続けた。こうして1682年からルイ14世ら王族はヴェルサイユ宮殿で生活を始めたのである。


ヴェルサイユ宮殿(Jean photosstockによるPixabayからの画像)

ヴェルサイユ宮殿でルイ14世は「王であること」を貴族たちに見せるために、毎日決まったスケジュールで生活を送った。

起床は7時半だ。近侍が起床の声をかけると医師が王の寝室に入り、ルイ14世の健康チェックと下着の着替えを行う。8時からは他の王族と神への祈りをささげる。8時半からは調髪係が髪を整え、衣装係が服を着せる。

準備が整うと謁見を許された100人ばかりの貴族がルイ14世の前を通り過ぎて行くが、この時に王が誰かに興味を示せば大変だ。その貴族は、「王が私を見てくれた」と大喜びし、これで我が一族は安泰だと安堵するのだ。

この頃には王の権力が絶対となっており、王に認めてもらえることが何よりも重要になっていた。そのために貴族は王に真似て華美な衣装や髪飾り、宝石を身に付けて白化粧をし、優美な振る舞いをして王の気を引こうとしたのだ。こうしてフランスの服飾の文化は大きく発展することになる。

料理の世界も同じだった。ルイ14世は9時過ぎからの朝食は一人でワイン2杯とブイヨン1杯を飲んだが、昼食と夕食は貴族の前で食事をした。この食事は身に付けた衣装や宝石のように、見かけはとても豪華だったらしい。特に夜10時からの夕食はすばらしかった。たくさんの見栄えの良い料理が大皿に乗せて並べられたのだ。内訳は何種類ものサラダにスープ、様々な肉料理、卵料理、果物と菓子だった。それがおごそかに給仕されて行った。これを見た貴族たちは自宅でも同じような料理を作るようになったのである。

ただし、ルイ14世は肉よりも野菜や果物を好んで食べたと伝えられている。特に野菜が大好きで、王専用の菜園でたくさんの種類の野菜を栽培させて、毎日楽しんでいたらしい。一番の好物はグリーンピースだったと言われている。

またルイ14世は、当時にはよく使われるようになっていたフォークを使わずに、ナイフだけを使って料理を切り分け、手づかみで料理を食べていたらしい。しかし、その仕草はとても優雅で、それを見た貴族はとても感嘆したという(おそらくお世辞だろうが)。

ところで、食事に使うナイフは先が丸まっているが、これは暗殺を恐れたルイ14世が1669年に食卓で先の尖ったナイフの使用禁止を言い渡したからだ。当然、貴族は右にならえで、自宅のナイフの先を丸めたという。

このように栄華を極めたルイ14世だったが、後世まで続く失敗をおかしてしまう。それは1685年に出した勅許だ。この勅許では、フランスのプロテスタント教会の破壊、プロテスタントの礼拝の禁止、牧師の国外追放が命じられた。これはプロテスタントの存在を認めたナントの勅令を完全に廃止したことを意味していた。

その結果、プロテスタントはオランダ、ドイツ、スイス、イギリスなどに逃げ出した。その数は20万人とも言われている。ここで重要なのは、逃げ出したプロテスタントの多くが商人や職人だったことだ。

こうしてフランスの産業は下火になってしまう。逆に、プロテスタントを受け入れた国々で各種産業が発展したのである。現代のフランスがファッションや料理では卓越しているが、それ以外の産業でそれほどなのは、この時代の出来事を引きずっているからだと言われている。また、スイスが時計で世界一の地位を築くのも、移住してきたプロテスタントのおかけである。

良王と呼ばれたアンリ4世-フランスの大国化と食の革命(1)

2021-07-07 17:51:07 | 第四章 近世の食の革命
4・5 フランスの大国化と食の革命
良王と呼ばれたアンリ4世-フランスの大国化と食の革命(1)
今回から16世紀後半から18世紀にかけてのフランスの食の世界を見て行きます。

現代の西ヨーロッパの大国はどこかと問われると、多くの人がイギリス、フランス、ドイツと答えると思われます。歴史的に見ると、この三国の中で最初に大国化に成功するのがフランスです。

ハプスブルク家が支配していたスペインや神聖ローマ帝国が次第に衰えて行くのとは逆に、王に権力を集中させる絶対王政をいち早く整えたブルボン家のフランスは、一大強国へと成長して行きます。それに続くのがイギリスで、その結果ヨーロッパの歴史は、フランスとイギリスの対立を軸にして進んで行くことになります。

今回は、絶対王政の礎を築いたブルボン家初代フランス王のアンリ4世を中心に見て行きます。


      アンリ4世
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ルター(1483~1546年)やカルヴァン(1509~1564年)らが進めた宗教改革によって、ヨーロッパではプロテスタントが次々と誕生した。フランスはカトリック国だったが、南部を中心にプロテスタントに改宗する人が続々と現れた。

そして、1560年頃になるとカトリックとプロテスタントの対立が激しくなり、内乱状態に発展する。フランスではプロテスタントのことを「ユグノー」と呼んだため、この内乱を「ユグノー戦争」という。

1572年にカトリックとユグノーの融和をはかるために、フランス王シャルル9世の妹とユグノーの指導者でナバラ王だったアンリの結婚式が執り行われたが、この祝典に集まった数千人ものユグノーを国王側が惨殺するという事件(サン・バルテルミの虐殺)が起きてしまう。その結果、内乱はますます激しさを増して行った。

そのような中で、1589年にフランス王アンリ3世(在位:1574~1589年)が暗殺される。その結果、アンリ3世のヴァロワ家には王位継承権を持つ者がいなくなってしまったため、遠縁であるブルボン家のナバラ王アンリが次のフランス王になることに決まった。

しかし、アンリはユグノーのリーダーだった。憤慨した有力な貴族や宮廷関係者は彼を王として認めないと反発し、パリの門を閉ざした。彼らのほとんどはカトリックで、またパリの民衆の多くもカトリックだったからだ。

ところがアンリは政治的な理由から改宗を何度も繰り返してきた男であり、今回もカトリックに改宗することでこの危機を乗り切った。実に5度目の改宗だった。彼は歴代の王のようにカトリックの「塗油」の儀式を受けて、手で触れることで病を治す神通力を身に付けたと言われている。

この神通力こそがカトリックの王の証だった。感じ入った人々はパリの門を開け、新しい王を招き入れた。ブルボン朝初代アンリ4世(在位:1589~1610年)の治世の始まりである。

彼は10年近くをかけて反抗するカトリック勢力を屈服させた。また、スペインなどから侵略を受けていた土地を奪い返して行った。こうして1598年にはフランス全土を掌握することに成功する。

アンリ4世は最後まで抵抗を続けたブルゴーニュのナントで「ナントの勅令」を発布し、ユグノーに信仰の自由と公職就任権を認め、安全な生活ができる都市を与えた。自分自身はカトリックに改宗したが、ユグノーにも花を持たせたのである。思惑通り、カトリックとユグノーの戦いは収束した。

アンリ4世は在位中から現代に至るまで非常に人気がある王だ。それは「良王アンリ(le bon roi Henri)」と呼ばれるほどに国民のための統治を行ったからだ。

戦争で荒廃した農地を見たアンリ4世が「我が治世においては、日曜日の農民の食卓には必ずプール・オ・ポが乗るべし」と言ったという有名な逸話が残っている。

プール・オ・ポ(poule au pot)」とはメンドリの肉を鍋で煮込んだものだが、これは当時の貧しい農民が簡単に口にできる料理ではなかった。それを日曜日には必ず食べられるようにしてやるぞというアンリ4世の意気込みだったのだ。

彼は貧しい農民のために、借金のかたに家畜や農具の差し押さえをすることを禁止した。また、各個人に対して一律に課される人頭税を引き下げた。一方、塩税などの間接税を上げたり、官位のある者から新たに徴税を行ったりすることで税収を増やした。つまり、貧しい人々の負担を減らす代わりに、金持ちの税金を増やしたのだ。

また、軍隊を拡充し、多くの兵士を常備軍として雇い入れた。これで戦が無くなっても路頭に迷うことはない。さらに血気あふれる者は探検隊として北アメリカに派遣した。こうして1607年にはケベック市が建設されてカナダ植民が始まることになる。

アンリ4世の下で活躍した農学者にオリヴィエ・ド・セール(1539~1619年)がいる。彼は試験農場で様々な実験を繰り返すことで、高い収穫量が見込める耕作法や牧畜の技術、養蚕の技術などを開発して行った。特に様々な野菜の耕作法を見つけ出したおかげで、その後のフランス人の食卓にはたくさんの野菜が乗るようになったと言われている。

また、トウモロコシやイネ、ホップなどの新しい作物を積極的に導入し、栽培方法とともに調理法も研究したとされている。

セールの研究成果は1600年に『農業経営論』として出版され、19版を重ねるベストセラーになった。しかし、あまりにも時代を先取りしすぎていたため、当初はフランスでは受け入れられず、むしろ先進的なイギリスやオランダで大人気になったそうだ。なお、アンリ4世は養蚕技術の部分を絶賛し、一万六千部を増刷してフランス中に配布したと言われている。

このように国土の復興に努めたアンリ4世だったが、その最期は唐突に訪れた。乗っていた馬車が停止したところを狂信的なカトリック教徒に襲われたのである。1610年5月14日、まだまだ活力にあふれた56歳の春のことだった。

嘆き悲しんだ国民は犯人をなぶり殺しにして、最後はすべてが灰になるまで焼き尽くしたと言われている。国民にとても愛されていた王だったのだ。