Sketch of the Day

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social inclusion and public park

2006-09-20 | Media
笹沼弘志(2006):ホームレス、または世界の喪失、現代思想、vol.34.9、p.68-85

これはちょっと目から鱗だ。この論文は、先の大阪地裁の判決-公園に4年間暮らしてきたある男性がそこに「住所」を認められた-について、「居場所を奪われたホームレスの人々が、公園にテントを建て、耕し、仲間との絆だけでなく、地域の住民たちと出会いの場をつくり出し、この世の中をわずかながらであれ作り替えたこと、そのようにして彼らがこの世の中に「住んでいること」を、後追いながら、公権力が認めたことである。」と指摘している。特に後半の「世界を作り替える」という部分、新しい住まい方が法の世界の中で認められたという点が重要だ。

複雑なのは、公園で野宿する「権利」が認められたのわけではなく、そこに住まい、生活の本拠としていることが認められたに過ぎないという点だ。これがなぜ重要かというと、「住所を認めるか否かは、そこに住んでいる、生活の本拠としているという事実によってのみ判断されるべきものであり、そこの場所に占用権原があるか否かは無関係」だからである。

つまり判決の意義は、「ゴミのように排除されるべき存在であったホームレスの人々も、この世の中に住む資格のある人間であり、市民であること」を認めた点にある。しかし、それ以前の問題として、日本国憲法25条で「生活権」を保障し、その具体的保障手段として「生活保護法」がある我が国において、失業者が直ちにホームレスになることは実に驚くべきことであると指摘する。そして、それには社会的排除 social exclusion という市民権の全面的剥奪と、それ以前に、社会の成立条件としての「世界の私的囲い込みと、根源的排除 eviction 」が関わっていると言う。

そして、公共空間や、公物とは、世界の私化(囲い込み)の残余としてある、と指摘する。問題は、貧困であるが故に私的に囲い込まれた世界に居場所をもつ権限を持たない人々が排除されてしまったことである。彼らは必然的にわずかばかりの公共空間に身を寄せることとなるが、そこでもまた暴力的な排除が待っていたというわけだ。

ここで注意すべきは、一見すると、私的領域に対する公権力の優越に見えるこの事態であるが、実はそのような監視の目を光らせている張本人というのが、今日の「監視社会」においては、(法的に正当化された公権力ではなく)「私人」にほかならないということだ。つ・ま・り、ホームレスは公園から出て行けという論理は、わずかに残された公共空間をさらに「私物化」する論理(公私の論理の転倒)であり、公園を、いわば持てる者だけの、会員制施設にしようということだ、というのだ。これは目から鱗だ。

しかし、この論文を読んで僕はまた別のことを考えた。それは、公園や庭園って、建築と比べると「人の生存を支える」(シェルターとしての建築)という「切実さ」のようなものが弱いなと、常々考えていたのだけれど、どっこい、公園って、ホームレスの人々の命を生活を支えているじゃないかと。いわゆる公園の世界ではホームレスの居住は公園の利用形態の一つであるなどとは断じて認められていない(僕は以前にも書いたけれど、こういう公園の使われ方こそが公園の本質的な存在意義であると思っている)。でも、「人々の命を支える空間として公園が切実に機能している」と考えると、公園も結構やるじゃねぇ~かって思っちゃう。