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ソーシャル・キャピタル論と景観問題

2006-09-15 | Media
渋谷望(2004):〈参加〉への封じ込めとしてのNPO-市民活動と新自由主義、都市問題、95(8)、(財)東京市政調査会 を読んで、景観の問題にあてはめて考えてみました。

景観を含むハードな社会資本を今後守っていくためには、それらを支える「集団内部又は集団間の協力を円滑にする社会的規範、価値観及び理解を伴うネットワーク」いわゆる「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)の蓄積や回復が求められる。一方、昨今流行のソーシャル・キャピタル論には負の側面もある。すなわち、ソーシャル・キャピタルの2大タイプ、内向的で排他的な「結合型」と外部に開かれたネットワーク型の「橋渡し型」のうち、前者の形成過程において、他者が排除される危険性がある。関連して、ソーシャル・キャピタルの蓄積と回復を最終的な目標とする観点からは、蓄積自体の不均衡、具体的には、ソーシャル・キャピタルの形成に参加できる社会階層(特に所得層)が実は限定される傾向にあり、事実上、社会的階層格差や社会的排除の問題を軽視又は不問にしてしまう危険性がある。

以上から、昨今の景観法制をめぐる議論に批判的に切り込む視点があり得るとすれば、それはソーシャル・キャピタル論をやはり批判的に検証することから獲得されるのではないだろうか。つまり、保全・創造に値する景観をソフト面で支えることになるソーシャル・キャピタルというものが、実はその蓄積・回復に参加できる社会階層を限定してしまうとすれば(持てる者)、そのようにして形成される景観とは限定された社会階層にのみ支持される景観、言い換えるなら社会的排除の上に成り立った景観ということになってしまう。

また、ソーシャル・キャピタル論の特徴として、ソーシャル・キャピタルの衰退の原因を、不安定な職や経済的苦境に起因する忙しさ、郊外化、電子コミュニケーション、世代変化に求め、ソーシャル・キャピタル回復の必要性を説くものの、ソーシャル・キャピタルを衰退させたマクロな要因-新自由主義的グローバル化-に対しては無関心を決め込む。それゆえに、ソーシャル・キャピタル論は社会的格差・排除の問題を軽視することになるのである(新自由主義は社会的格差・排除のマクロな要因でもある)。つまり、ソーシャル・キャピタル論とは、それが求められるに至った原因-新自由主義-には目をつむり、結果のみを問題視し解決しようとする、すなわち結果的に新自由主義を下支えするものなのである。景観や社会資本の整備においてソーシャル・キャピタルの視点が着目されつつある昨今、以上の点には十分に注意する必要がある。社会や経済の体制を不問にしたままの景観論、社会資本論は不毛である。

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