「 大 寒 」
冬の冷たい風にあたると
幼年期を過ごしたあの港町の
お台場から見えた風景が脳裏に浮かぶ
いくつの頃だったか ・・・
いつものように海が見渡せる 「お台場」 で近所の友達と遊んでいた。
そこは海に向かって大砲が据えつけられていた跡が残っている砲台である。
( 東京の “お台場” ではありませんが、「要害の地に設けて大砲を据え
つけて海防に備えた砲台」 という意味では同じ用途の土地名称です )
お台場は、小さな運動場ほどの凸凹の原っぱで、建物の基礎部分の址と思われる
大きな穴や溝があちこちにあった。その穴や溝が 「かくれんぼ」 に最適で格好の
遊び場になっていた。そして、どんなに冬の寒い日でも外で遊んでいた当時の子供
にとっては、冷たい風を防げる避難地(基地)でもあった。
当時、爆竹やカンシャク球など大きな音を出して爆発する玩具が流行っていた。
特に、「2B弾」 という爆竹は、花火などの枠を超えて、差し詰め “小さな爆弾”
だった。2B弾は約10cmほどのダイナマイト型で、頭にマッチの頭と同じ発火性の
混合物を付けた形状で、マッチなどの火は必要なく、石や金属、硬い木などに
擦り付ければ、その摩擦で着火する仕組みだった。そこいらの悪ガキはみな、
ポケットに入れて持ち歩いていた。子供には非常に “危ない遊び” だった。
( 昭和40年前後の話ですが、2B弾は駄菓子屋で簡単に買えていました。
ただ、事故や怪我が絶えず危険で、数年で製造中止になったようです )
この2B弾を溝の横穴に突っ込んで “発破をかけて” 遊んだり、二手に分かれて
手榴弾のように投げ合う “戦争ごっこ” 宛らの遊びをしていた。もちろん、大人に
見つかれば大目玉を食らう。特に、そのお台場の横にあった派出所のおまわり
さんには何度となく怒鳴られたもの。お台場のほぼ中央に一つだけ残っている
小屋(たぶん、何かの資材置き場)の扉に掛かっていた鍵に、2B弾を10本ほど
突っ込んで爆破させようとした時、途轍もなく大きな爆音となり、おまわりさんが
飛んできて、これまた、こっぴどく叱られた。今の時代なら逮捕されるのではないか
という事件だった。
それでも、今の時代のように 「危険」 「危ない」 と子供が何かをする前に親や
大人が止めてしまうようなことはなかった。だから、失敗や痛みを自分の経験で
体感できたのだと思う。初めての “危ない遊び” が取り返しのつかない犯罪に
なってしまう可能性は今の時代の方が圧倒的に高いのではないか ・・・ 。当時が
良い時代だったとは思わないが、今の時代ほど人の心は荒んではいなかった。
皆、貧しかったけど温かかった。私の昭和はそんな時代だった気がする。
ある日、
そのお台場の塀から首を出して港(海)を見渡していると、外国船籍の貨物船が
入港してきた。もちろん、重要港湾に指定されている大きな港なので、珍しい風景
ではなかった。しかし、いつもと違う雰囲気を子供心に感じていた。なのに、子供の
子供らしいところというのか、怖いのに怖いもの見たさというのか、着岸したその
貨物船に友達と二人で近づいて行った。船のデッキから船員の数名がこちらを
見ている。私の記憶では、たぶんヨーロッパに近い西方のアジア人だった。
一人の大きな男が何か声を掛けてきた。と思うのと同時にタラップから下りてきて
友達の手を引いて船へ連れて行ってしまった。私の目にはどう見ても、無理やり
引っ張り込まれたように見えた。私はどうすればよいのかわからず、その場で
ただオロオロしていたことを憶えている。友達を呼ぶ声も出せず、その場を離れて
誰かを呼びに行くことも出来ず ・・・ それから、何分くらい経過しただろうか、友達が
タラップを下りてきた。あとで、その友達に話を聞くと、船内を案内してもらったのだ
と言う。なぜ、お前は来なかったのかと逆に聞かれた。しかし、私の脳みそと心臓は
それどころではなかった ・・・ 。( 頭パンパン!胸バクバク! )
また別の日の出来事だが、
岸壁にダンボールの廃品を1m角に押し固めた荷が100個ほど積み上げてあった。
子供にとっては絶好の遊び場である。友達数人でそのダンボールの山に登って
遊んでいた。もちろん、その荷は船でどこかへ運ぶ荷物(商品)だったのだろう。
あまり人相の良くない若い兄ちゃんが私たちの傍へつかつかと歩み寄ってきた。
“お前らー!何してるんや~?” と声を掛けてきた。私たちは一瞬、怒られると
思い下りようとしたが、友達の一人が “おっちゃんが遊んでもええって言うた!”
と嘘をついてしまった。すると、兄ちゃんは “ほんまか?!” と少し凄んで見せた。
私たちが黙っていると、いきなりナイフのようなものを出して登ってきた。私たちは
必死の思いで荷から下りて逃げた。皆、一目散でそれぞれの家へ逃げ帰った。
もちろん、脅しだったのだろうが、こんな強烈なお仕置きは初めてだった。“もう
悪い事(勝手に人のものに触ることや嘘をつくこと)はしない!” と子供心に
震えながら誓ったものだ。私は子供の頃、数えられないほどこんな経験をした。
今、自分の周りにいる子供を見て ・・・ “まあ、無いよなぁ~” と、安堵と不安が
交錯する複雑な心境になっている自分に気づく。 これでええんか ・・・ !?
大きな港の奥に、「湛保(たんぽ)」 と呼ばれる小さな港がある。幕末に造られた
人造港で、昔は網元の屋敷が港の端にあり、周りを遊郭が取り囲み、溢れるほどの
舟が停泊して栄えた港だったらしい。今はその面影もなく海上保安庁の船と小型船
が係留される港になっている。私が子供の頃にはその面影が多少残っていた。
小さな神社と古い灯台(今はない)があった。賽銭箱に手を突っ込んだり、石塔?の
灯台によじ登って遊んだ。知人が元遊郭だった家に住んでいたので、よく泊まりに
行った。玄関の三和土から空気が違い、帳場だったであろうスペースを抜けると
中庭が見える。回遊式の廊下の一番奥に厠があった。子供なりに風情を感じた。
街場は、きれいに区画整理され、
家にも、学校にも、公園にも、“危なさ” が無い。いや、“おもしろさ” が無くなった。
“生活感が無い” とよく云うが、“カン” 違いである。今の時代は “生活環” が無く
“生活観” が芽生えない時代なのだと思う。もう、昔に引き帰すことはできないが、
少し見直すことはできるような気がする。
子供たちにも少しだけ “危なさ” を与えたい ・・・