ラグの「素直に生きれば人生は楽しい」

主に人生の歩き方について「人生お弁当箱診断」など
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アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】

2008年01月06日 | 昭和懐古


さて、休憩時間です。

“ゴジラさんたち” とゲレンデで遊びます!
今日は何をするのか ・・・





旅館の女将さんや旦那さんが “ゴジラさんたち” と呼んでいましたので、ここからは、この怪しいグループを 「ゴジラさんたち」 と私も表現したいと思います。写真右に単独で写っているのは私の25年前の雄姿?ですが、左の写真が 「ゴジラさんたち」 です。もちろん、こちらも25年前の姿ですよ。

ピンクのシャツ姿の方がリーダー O氏 で、当時40歳過ぎだったと記憶していますので、現在、65歳にはなられているのでしょうか ・・・ 。遊び心たっぷりのデザイナーさんで、この山での遊びも色々と提案されていました。

チーム名の 「ゴジラ」 のスペルが正解かどうか記憶が定かではありません。スカイは間違いなく 「SKY」 で 「SKI」 ではありません。空も飛んでいるのかと思い聞いたところ、「SKI」 で印刷物を依頼したところ、間違って 「SKY」 となって納品されたらしく、やり直しを言うのも面倒なので、その間違ったままの名前が正式なチーム名になってしまったとか ・・・ ( ここら辺りにも遊び心を感じてしまいます )。

このゴジラさんたちのスゴイのは、周りを明るくして楽しませるのは当然ですが、“やればできる!” で周りを巻き込んで行動までさせてしまうパワーがあるところなんです。私もその被害者?の一人でした。実は私、大山が初めての 「山」 。

当たり前ですが、スキーなんぞやったことはございません。もちろん、スポーツは大好きで運動神経はそれなりにありましたので、この機会にスキーはやってみる気ではいたのですが ・・・ 

いきなりでした!リーダーの O氏が私に “K氏、一緒に滑りに行こう!” と声を掛けてきたかと思うと、その週末に来ていないメンバーの板と靴を持ってきて、私の足にいきなりセッティングしてしまったのです。

ここまでなら世間でよくある話かもしれません。 しかし ・・・旅館を出ると、ゲレンデリフトのある方向とは逆に、参道を登り始めました。パラレルすらできない私は、直滑降スタイルのまま横を向き、蟹歩きでゆっくり登るしかありません。途中からは獣道のような細い山道を潜り抜けて行きます。

途中、段差やカーブがあり、私は何度も転倒、コースアウトを繰り返しました。出発から何分くらい掛かったでしょうか?何とか目的地のゲレンデ中腹に出ることができました。

しかし、ここからが本当の難関です。もう一度言いますが、私は初めてスキーをしています。今までは、登りと緩やかなカーブでした。そして、周りにはゴジラさんたちだけでしたので、そう迷惑は掛かりませんでしたが ・・・

“ほんとにここから滑るんですか?” という私の悲痛な質問すら受け流して、ゴジラさんたちは下のロッジに向かってサッサと滑って行ったのです。私は開き直り、直滑降で滑り始めました。止まりません!ヤバイ状態です。

とその時、ゴジラさんたちから “こけろ!” “ころがれ!” と声が掛かります。“ああ、こければいいんや。” と納得したのですが・・・ こけ方がワカリマセン!スピードがどんどん加速して本当にヤバイです。

目の前に私と同じレベルのおばさんがこけています。このまま行くと確実に人身事故です。思い切って私は横に飛びました。 ・・・ 何とか止まりました。( 良かった! )

“無茶してるな~” とメンバーから言われました。( 無茶させてるのは誰 ??? )これが私のスキー初体験でした。“やればできる!” をカラダをもって体感したということにしておきましょうか。

私がロッジについた頃には、同じアルバイトの S嬢(奈良の19歳大学生)もバギーに乗せてもらってやって来て総勢8名が合流です。さて、ここからはスキーやバギーを使ってゲーム開始?です。(珈琲が懸かっています!)





25年前(80年代)に、シャツやトレーナーにジーンズという軽装で春スキーを楽しんでいます。今の時代ならショートスキーも遊びグッズとしては当たり前でしょうが、2m前後のロング板全盛の時代に、「HELLY HANSEN」 の160cmショートの白いスキー板を選択し、ゲレンデに現れたメンバーは凄いです。

それから、発売されたばかりの 「三輪バギー」(ホンダのATC110) に乗って遊びまわる 「ちょいワル兄ちゃん?」 は、今の時代でも十分通用するはず。その時、私は真剣に思いました。“こんな 30代 40代 になりたい!” と。影響を受けない方がおかしいです!

私に強烈な印象を残したあそび集団は、春には色違いの 「Vespa」 でツーリング、皆がそれぞれ持っているお気に入りの「Zippo」、自分たちで旅館に持ち込んだ「L.L.Been」 柄のカバーの付いたコタツ、そして、「アメリカン」 の程よい豆香が漂う珈琲メーカーからカップに注いだたっぷりの珈琲をブラックのまま啜り、寝る時は布団ではなく、もっぱら 「シュラフ(寝袋)」 を愛好するメンバーたち。( 朝一、私が部屋を覗くと、何と 「芋虫集団」 に ・・・ 。)



    HONDA ATC110                ZIPPO

ゴジラさんたちはほとんどお酒は飲みませんでした。ビールくらいは飲んでいる人はいたかもしれませんが、“真剣に遊ぶ” が大前提のようで、最大限、時間を有効に使っているようにも見えました。

そんなゴジラさんたちの部屋でウイスキーのボトルを1本発見しました。○トリーホワイトの瓶です。“へぇ~、ウイスキー飲むんや ・・・ ” と思いながら、私が何気にキャップを開けた瞬間、何とも表現がし難い悪臭が立ち込めました。

“腐ってる!” と私は思い、ボトルをマジマジともう一度見直しました。すると、ボトルの中に何やら黒い物体が ・・・ それは 「カメムシ」 という虫の屍骸でした。

山にはカメムシがたくさんいて、部屋の中に入ってきては悪臭を放つので、ゴジラさんたちは捕まえては、こうして瓶詰めにしていたそうです。( 今シーズンは多いとか少ないとかを “虫容量” でチェック!・・・? )

このアルバイト、まだまだ何か起こりそうな予感が ・・・ 。(つづく)

■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山④ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】


アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】

2008年01月06日 | 昭和懐古

続々とスキー板を抱えたお客様(スキーヤー)が入館してきます。

この宿は常連のお客様が多いようで、旅館の方との挨拶やお客様同士の再会の挨拶があちこちで行なわれています。玄関エントランスに置かれたストーブの周りには自然と人だかりができていました。かと思えば、荷物を置くと同時に即行でゲレンデに向かうツワモノもいらっしゃいます。




 

入館されたお客様を部屋へご案内、食事(朝・昼・晩)の用意と片付け、施設の説明や案内、貸しスキーの管理業務、お風呂やトイレの清掃、布団のメイキング、チェックアウト後の部屋の清掃、館内の共用部分の清掃などなど、アルバイトの仕事は後から後から湧いてきます。

朝5時過ぎに起床して仕事が始まり、夜0時前後には就寝できるスケジュールだったと思います。その日の状態にもよりますが、3食付いてお昼から夕方にかけて2時間ほど自由時間もありましたので、私にはさほど過酷な状態ではありませんでした。

常にカラダを動かしながら次のスケジュールへとシフトできるという点では、自分向きでしたし健康的で規則正しい生活リズムになったことは間違いありません。一日の中で場所や仕事内容が変わることは、超のつく飽き性の私にとってはストレスの溜まらない好条件の環境だったとも言えます。

そして、仕事面で一番やりがいを感じたのは、自分たちで仕事の組み立てができたということでした。はじめに、「絶対にしなければならない事」 と 「絶対にしてはいけない事」 は教えられますが、それ以外は、それぞれで判断して行動しなさいという風土(学校でいう校風、会社でいう社風)がありました。

もっと言えば、誰かがリーダーシップを発揮しないと、仕事が纏まらない進まないという状態に必ず直面します。限りなく(放任ではない)自由主義で、限りなく全体の行動責任が問われる環境でした。これが私の仕事観を変えるキッカケになったのだと思います。

言われる前にやってみる。本当に困った時には聞けばいい( HELP US!)。と思えたのは人間関係含めた環境のせいだったのではないでしょうか。女将さんやおばちゃんたちに教えてもらった作業を自分なりに組み立て直し、優先を外さないように順番を変更したり、作業を取りまとめて分担(分業)制にして効率化を図りました。

例えば、部屋のメイキングや掃除は、おばちゃん個々が割り当てられた部屋をそれぞれ担当して、一人で全ての作業を完結していたのですが、それを分業化し効率を高めました。もちろん、同じアルバイトですので、役割は毎日ローテーションします。

ただし、ルールとして、自分の前に行なった作業に不備があった場合は、その場でしっかりとフォロー、あとで本人には直接その不備を伝えるようにしました。( 良い人間関係の構築に外せない部分です! )

3日目には、年齢もあるのでしょうが、私がアルバイトのリーダー的な存在になっていました。私は本来、自ら上に立ちたいタイプではないのですが ・・・ 。

しかし、いつも真剣に取り組むとのめり込み、そういう状態になることがあります。そして、必ずといっていいほど周りに勘違いや誤解が起こります。

特に、派閥争いのような現象が起こり、敵対視する者が出てきたりします。そういう状況になると、私はスーッと冷めてしまい、全くリーダーシップを発揮しなくなる意固地な部分もあります。学生時代(クラス委員や部活リーダーで)嫌というほどそういう経験をしていたので、それだけは避けなければなりません。

勘は当たりました。少しそうした傾向が見え始めた者が現れました。適材適所でオペレーションすれば、もっと効率が上がるのに ・・・ という考えでした。私の考えではまだ無駄があるという見方だったのでしょうね。確かにそうです。

しかし、ここへアルバイトに来ているメンバーのほとんどは、たくさんのお金や追求した生産性を求めているわけではありません。私は皆で取り組んで無駄が減った分、個々の時間に充てたかっただけです。

お客様の満足度を下げないように、また、旅館の方針をけっして曲げないで、且つ、スタッフのトライに対する達成感と有意義な時間を作りたかっただけです。
( 何と言っても、皆が笑顔で働ける環境がBEST!なのではないでしょうか )

私は時間を掛けることにしました。私の考えで動かしていた部分をすべて0(ゼロ)に戻して、その本人に任せることにしました。そして、私は実行とフォロー役にまわりました。

それから何度か意見はぶつかったのですが、約1ヶ月後にはお互いの信頼関係(必要性)は築けたと思います。真剣に “(その環境を)良くしたい” とか “(お客様の満足のために)貢献したい” といった共通認識がある限り、人は解り合えるものだとも感じました。

その実践をこの環境でできたことは、これまた貴重で大きな財産になりました。


↓共用廊下を掃除している途中、“旅館内に 「怪しい部屋」 発見!” です。




ここは屋根裏部屋です。(最上階の押入れの扉を開けると秘密の階段が・・・)しかし、れっきとしたお客様の部屋なのです。とはいっても普通のお客様ではなく、常連?の遊びグループがシーズン中借り切っている特別の部屋だったのです。

“週末の真夜中、音を立てずにヤツらはやって来る!” (少し音はしますが ・・・)
岡山や広島から集まってくる遊び大好きなグループです。
「ゴジラスカイクラブ」 という名で、30~40歳代が中心の12~13名のチーム?でした。

私より一回り以上年上の人がメインだったですが、とんでもなく楽しくて元気な方々の集まりでした。私は直ぐに意気投合し(完全にハマリました!)、週末の夜中になると屋根裏部屋へお邪魔をして一緒に遊ばせてもらいました。真夜中に他愛もない話をするのですが、真剣に楽しませてくれる空気がありました。

もちろん、彼らはスキーをしに来ているのですが、“スキーも含めて山で楽しもう!” 精神に溢れた面々でした。いつも笑顔で、いつもパワフルで、輝いていました。20歳過ぎの私から見て “こんなオッサンなかなかおらんよ!” というレベルでした。週末は完全に寝不足、週明けにはフラフラ状態で仕事をしていました。(つづく)


■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山② 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山③ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山④ 】
■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山⑤ 】


アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】

2008年01月06日 | 昭和懐古


高校時代から色々とアルバイトをしてきました。

窮めつけは、大学受験に失敗し、それから3年ほどは定職にも就かず、様々なジャンルの仕事をフリーで渡り歩くアルバイト生活をしていた時代がありました。いわゆる、今の “フリーターの走り” だったかもしれません。

アパートの表札に 「ALBITE UNCLE」 という肩書き?を自身で付けるというその時代には何とも外れた怪しいヤツであったことは確かです。

鳥取大山(だいせん)の旅館(宿坊)でアルバイトをした経験があります。もう、25年くらい前の話ですが、その時の記憶は昨日のことのように鮮明です。





その頃、家業(潜水工事業)を手伝っていたのですが、どうも性に合わず、親父に本心を話して家を出ることにしました。 どうせ家を出るのなら ・・・ “今までとは全く違う環境で働き生活してみたい!” と考え、四国・九州・関西とどこに移っても、いつも 「海」 の近くで生活していた私は、憧れまではないものの「山」 へ行くことにいささか興味を持ち始めていました。

とりあえず、求人雑誌を買い込み職探しを始めました。丁度、冬目前で、スキー場アルバイトの求人がたくさん掲載されていました。その中から、何故か、北海道や信州ではなく、鳥取(大山)にある一軒の旅館(宿坊)の求人が目に止まりました。

何か他とは違う空気を感じたというか、ちょっと怖い話ですが、何か(誰か)に “誘われている” 気がしたのです( 天邪鬼なので待遇条件が一番悪いところが気になったのかも ・・・ )。履歴書を郵送すると、意外と早く電話で採用の返事がありました。( 即採用 !? )

12月22日だったと思います。山陽本線で岡山まで行き、伯備線に乗り換えて米子に向かいました。初めて米子駅に降りたのですが、何度も来ているような錯覚を覚えました。

バスに乗り込み大山へ向かいます。伯備線の途中辺りから寒さを感じていたのですが、夕方、バスを降りて一番上(大山寺に一番近い場所)にある旅館(宿坊)に着いた頃には、完全に悪寒に変わっていました。

女将(若女将)さんが気遣ってくれて、私のためにお風呂を早めに沸かしてくれました。天然ではありませんが、お客様用の大きなお風呂です。1時間以上温まったのですが、何分浸かっていてもなぜか震えが止まりません。

結局、山開き(12/25)を3日後に控えて準備に大忙しの旅館で丸2日間寝込んでしまいました。後でわかったのですが、私の履歴書にある今までのアルバイト経験を見て、女将さんが私だけ先に入山させて用意を手伝わせる予定だったようです。

そういう意味では、完全に期待を裏切り、まったく、役に立たない野郎でした。体調が戻ったのは山開きの前日、他のアルバイトが次々やってきた日でした。それぞれの自己紹介もそこそこに慌しく山開き前日が終わりました。

働くことに関しては、高校時代からしんどい仕事やつらい仕事は数多くこなしてきましたので、少々のことでへばることはありません。つい数日前まで1トン前後の石を相手に力仕事をしていた私が、お客様相手とスタッフ同士の連携がメインの仕事で戸惑うと思いきや、案外スムーズに入っていくことができました。この経験こそが今の仕事を選んだ大きなキッカケになったことは言うまでもありません。

そして、もう一つ強く印象に残っているのは、出会った方々の優しさです。優しいというより、皆が大らかなんですよね。田舎だから ・・・ 確かにそうかもしれませんが、最初からそれ以上の空気感(家族のような一体感)がありました。

旦那さんと女将さん、大旦那に大女将、麓(ふもと)の村からシーズン中だけ手伝いにやって来るおばちゃんたち、そして、初めて会ったアルバイトの面々。すべての人が温かい人間でした。自分が日々変化しているのを感じた数ヶ月でした。この旅館での人との出逢いは私の人生観を大きく変えるものでした。





このシーズンになると未だに毎日、新聞の 「スキー場だより」 が気になります。
クリスマスの頃には積雪が 「0」 でどうなることかと心配しましたが、昨年末からようやく寒波が入り、大山の各ゲレンデも滑走が可能になっているようですね。

この週末も賑わいをみせていることでしょう。山にやって来るお客さん相手に多くの人々が一生懸命に仕事をしています。景気の良し悪しでなく自然現象でその仕事が減るのはやはり辛いものがあります。何とか毎年、スキー客が楽しめるくらいの雪がコンスタントに降ってくれるといいのですが ・・・ 。(つづく)


■ アルバイトアンクル 【 鳥取大山① 】
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初詣そして初出

2008年01月04日 | 楽時々益


“一年の計は元旦にあり”

毎年、これも恒例ですが、家族で初詣に出かけます。





親父は夜明けに神社へ向かい参拝をします。私は朝から酒を飲み、
その勢いで昼頃になってからようやく初詣に出かけるパターンです。
どう考えても私に御利益があるとは思えません。ただ、御利益が
有るとか無いとかではなく、家族が元気で参拝できることこそが大切
なことであり、そういう意味では、その一年、御利益があったと云える
わけであり、その感謝を表すために参拝しています。これが社寺へ
参拝する本来の姿だと私は思っています。

まあ、うちの家族は “そんなこと関係ねえ!” とばかりに、
お賽銭を投げ込み、毎年、そのお賽銭以上の願い事をしています。
私は、願いが叶うより罰が当たらないか心配で仕方ありません ・・・ 。
毎年、同じ神社(実家のある市でたぶん一番大きな神社)へ初詣に
行くのですが、昔は、元旦に行くと黒山のような人だかりで、本殿に
辿り着くのに相当時間が掛かっていました。しかし、ここ数年は
目に見えて参拝客が減少していました。それと共に、参道に数多く
軒を連ねていた的屋のお店が年々減っていました。なぜか、それと
反比例するように、ここ2年ほどは参拝客が少し戻ってきているような
印象です。勝手な憶測ですが、的屋の数やそこに群がる若者や
子供の姿が、余りにも “祭り気分” で神聖さに欠けていたからでは
ないでしょうか。それが少し改善されたことで、素直に参拝したい方々
が戻ってこれたのではないでしょうか。(神社の方針変換かどうかは・・・)

人はそう心配しなくても、意外と自然に道を正すものです。ただ、
生活や仕事も同じですが、自分が正しいと信じているものを見つめ直す
ことは難しいものです。特に、良い状態に見える時ほど難しいものです。
人から注意指摘される前に自ら気づき方向修正できる人間が素晴らしい
のでしょうが、なかなか素直になれないのも事実です。本当に賢い人間は
神仏に縋るのではなく、その精神を大切にできる人間なのでしょうね。
時には、神仏に祈りを捧げることも悪くない習慣かもしれませんよ。

今日は、初出です。
(店や会社によりますが)昔から生業で飲食業を営んでいる現場では、
初出の日には塩や酒で仕事場を清めてから仕事に入るところが多いと
思います。私は今、現場の一線ではありませんので、初出には挨拶程度で
現場を離れますが、現場の責任者をしていた頃は、家業(船舶関係)の
影響もあり、厨房の水周りや調理器具・道具に清めの酒を振り掛けます。
さすがに神棚までは作りませんが、スタッフにお神酒として酒を一杯ずつ注ぎ、
新年の挨拶を行ないます。職場での初出は仕事の元旦であるということを
若い世代にしっかりと伝えます。玄関に盛り塩をして営業開始です。

さて、この光景は今の世代にどう映りますやら ・・・ 。


あけましておめでとうございます!

2008年01月03日 | こんたく堵


あけましておめでとうございます。

お正月は休日が一日しか無くても実家へ帰り家族で祝うようにしています。
長男でありながら、家業を投げ出し両親を残して大阪へ出て好きなことを
している私。“せめて ・・・ ” という気持ちがどこかにあるのかもしれません。

ということで、大晦日から昨夜まで実家で正月を過ごしました。
ネットが繋がらない環境ですので、丸2日間、田舎のアナログ生活でした。





お袋も歳をとり、昔ほど 「おせち料理」 を量質ともに作らなくなりました。
それでも、数の子と黒豆、煮しめ、紅白のなますと蒲鉾あたりは今でも必ず
出てきます。両親共に田舎の人間ですので、正月だからといって派手で高価
なものは用意しません。ただ、四国の離島で生まれ育ったせいか、海の幸は
欠かしませんが ・・・ 。(今は、これが一番高価かも ・・・)そういう意味では、
派手な正月の食卓風景なのかもしれません。





私が子供の頃は親戚や仕事関係の人の出入りが多く、ビールケースが庭先に
10ケースほど積み上げてあり、床の間は、お歳暮や新年の挨拶廻りで戴いた
清酒の一升瓶で埋め尽くされていて、おせち以外の料理もこれでもかというほど
卓上に並ぶような環境でした。ビールと酒、刺身や乾きものなどオヤジたちが
好きな酒と肴の匂いが混ざり合い、一種独特な宴席の匂いと化し家中に充満。
こんな環境や雰囲気の中で、酒の肴を大人と同じように食べて育ったのですから
酒飲みにならない訳がありませんよね!?

お正月、実家で毎年欠かさず登場するのは、「伊勢海老」 です。
一人一尾ずつ用意してくれます。今年はわが家も家族全員揃って帰りました
ので、親父とお袋と弟と併せて8名分(8尾)です。それなりに豪壮になります。
三十日(みそか)辺りに、田舎(徳島)から生きたままの伊勢海老が届きます。
大晦日(おおみか)にボイルして(湯がいて)年が明けるのを待ちます。





元旦の朝、親父が皆に配られた杯(猪口)にお屠蘇を注ぎます。
皆にお屠蘇が注ぎ渡ったところで親父から新年の第一声。
“あけましておめでとうございます。今年も良い一年でありますように!”
“おめでとう!乾杯!” “おめでとう!乾杯!” と皆が続きます。

毎年、わが家の子供たちも、このお正月の何となく普段と違う
“凛とした空気感や雰囲気” をそれなりに楽しんでいるようです。

やはり、“お正月はお正月らしく” が一番だと思います。