土曜日になると、SLみなかみ号が走ります。我が家の庭のミツバツツジが満開になりました。
しばらくブログ「臨床検査の光と影」の更新を怠っていました。いささか違った話題もアップしようとおもっています。
昨年の晩秋の土曜日の午前中、カメラを肩にいつも通りのウォーキング中、そろそろ水上駅行、上りSLみなかみ号C6120型がくるころと、連写にセットして構えていたところ、偶然にも、上りの普通電車が右方向から走ってきて、すれちがいの瞬間に出会いました。3~5秒の違いで、こんな瞬間には出会えません。
自宅の30メートル東を、上越線が走っているので、懐かしい汽笛と石炭の臭いが懐かしく思い出されます。自宅の近所は、SL撮影のスポットになっているようで、車のナンバーをみると、かなり遠くからもやってきます。
69年前の夏の記憶 ⑬
神風特攻隊のこと
神風特攻隊の自爆攻撃作戦を企画立案した人、出撃命令を下した人、命令に従った隊員、その隊員の多くは20歳代が最多でした。
8月15日、終戦の数日後、友人の兄(30歳)が、前日の14日に出撃して戦死したと、知らせがとどきました。
多くの特攻隊員を送り出して「最後の1機で必ず出撃する」と云った陸軍第6航空軍司令官S中将は、戦後96歳まで生き残りました。多くの回想録や回顧録がでましたが、終戦が決まった翌日、自決した司令官や、早々と台湾に逃亡した上官もいたことを、あとで知りました。
5年ほど前に知覧特攻平和会館を訪れました。439名の遺書や遺品、若き隊員の写真など見つめ、喉が押し潰れるような衝撃を受けました。
とき、あたかも集団的自衛権行使の閣議決定を、国会審議もなく強行されました。最近では、米艦や米航空機が攻撃されたら、自衛隊が防衛行動に出るなどの見解が明らかになってきました。
戦争を知る戦前生まれの国会議員、衆議院では僅かに41名(9%) 参議院は28人(12%)
作家の半藤一利氏は「日本人は戦争の悲惨さ、残酷さを知らなくなったと、つくづく思う」と。
あこがれた予科練 ⑫
小学6年生、健康優良児として県表彰を受けた数日後に、日本海軍横須賀鎮守府の平出海軍中佐から「海軍は君を待っている」という趣旨の手紙が届きました。
「命惜しまぬ予科練は七つボタンに桜と錨…」に憧れた軍国少年の出来上がりです。
目指すは海軍飛行予科練習生、霞ヶ浦の所謂「予科練」です。
ここの少年兵となった練習生2万4千人、九州だけでも陸海含めて出撃基地は、知覧・万世・鹿屋・開聞岳・国分・喜界島など、いくつかの基地を合わせると、総勢24万1千人余、戦死者した少年兵など数千人およびました。
出撃した神風特攻機は、およそ1,300機ともいいます。あらゆる軍用機を総動員し、離陸できるぎりぎりまで爆弾を積載し、銃器を取り除き、搭乗員を守る鉄板を剥ぎ取り、なおかつ帰還に必要な燃料を積まずに、片道飛行で敵艦に突っ込み、体当たりする命令を受けて「神風特攻隊員」となったのです。
小学6年生は、「死ぬ」ことなど一切考えも及びませんでした。
国防婦人会 竹やり訓練
大日本国防婦人会が発足、いよいよ本土決戦とばかり戦意高揚、家庭の婦人達も駆り出され、鋭利な竹の穂先を焼いて固くした竹やりを持って広場に整列、敵兵を突き殺すというもので、在郷軍人による「竹やり剣術」の教練が始まりました。白鉢巻にもんぺにたすき姿で、それはみんな真剣で本気でした。
一方、焼夷弾攻撃の火災から守る、と各戸に防火用水漕が設けられ、かたわらに、竹棒の先に、30センチほどの荒縄の束を、はたきのようにしたものが立てかけてありました。穂先を濡らして、焼夷弾の炎を消す方法とか。
町内のあちこちの庭に、すり鉢様の穴を掘り、これで敵機の襲来する爆音を、いち早く感知する、アンテナになるというものもありました。
いま思えば、何の役にも立たないのは当然ですが、滑稽であり、悲しい笑いの種としか思えませんが、戦争というものは、こうして徐々に、大衆が洗脳されていったのかもしれません。