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ヌスラとYPGの死闘 セレカニエ 2013年1月

2015-10-27 22:34:36 | シリア内戦

   

201211月、自由シリア軍がセレカニエの政府軍に勝利した。政府軍は町から消えたが、クルド軍は町に残っている。町の住民の多数がクルド人である。セレカニエの支配をめぐり、自由シリア軍とクルド軍の戦闘が開始された。1119日に始まった3カ月間の戦闘は、激烈だった。自由シリア軍はヌスラ戦線と地元のアラブ民族主義部隊に率いられている。クルド軍(YPG)はこの戦いに勝利した。

2013年219日、クルドとアラブの両者が妥協し、停戦が成立した。セレカニエの統治は地元の政治家に委ねられた。住民の多数はクルド人であり、戦闘はYPGが勝利したという事実があり、クルドに有利な形での停戦だった。

しかしハサカ県全体での、クルドとアラブの権力闘争は終わっていない。したがってセレカニエをめぐる抗争も完全に決着したわけではない。

 

反政府軍のなかで最強のヌスラ戦線を相手に、YPGが戦った。3か月の死闘を、ウィキペディアがまとめている。

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        The Battle of Ras al-Ayn

 

   <セレカニエの政府軍、敗北>  

2012118日、自由シリア軍がセレカニエの政府軍を攻撃し、町を占領した。

自由シリア軍の攻撃に、クルド人も参加したと報告されているが、確かではない。地元のクルド人は、反論している、「YPGはアサド政府の支配に服しており、攻撃には参加していない」。

自由シリア軍側は約20人戦死し、政府軍も20名死亡した。約8000人の住民がトルコへ避難した。

1110日、政府軍はセレカニエを空爆した。住民16人が死亡した。

 

1114日、自由シリア軍はセレカニエの近くの政府軍の拠点を攻略した。政府軍兵士18名が死亡した。

1115日、自由シリア軍はセレカニエに残った最後の政府軍の兵士を捕虜とした。抵抗した者は殺害した。自由シリア軍はセレカニエを完全に掌握した。

3日間、シリア空軍の爆撃はなかった。政府軍はセレカニエの支配をあきらめたようだった。

 

   <自由シリア軍、YPGを攻撃>

1119日、自由シリア軍はセレカニエにあるYPGの検問所を攻撃した。しかしYPGが反撃し、由シリア軍兵士6人が死亡した。

自由シリア軍は、PYDのセレカニエ支部議長アブド・カリルを暗殺した。スナイパーによる射殺だった。

 

1120日の戦闘で、34人が戦死した。そのうちの29人は、ヌスラ戦線とガルバ・シャム大隊の戦闘員だった。残り5人のうち、4人がクルドの兵士で、一人はクルドの役人だった。戦死した4人のクルド兵士は、捕虜になってから、処刑されたようである。

以上は英国人権団体の報告であり、クルド側の戦死者が非常に少ない。自由シリア軍の支持者は異なった報告をしている。クルド側の戦死者は25人で、ヌスラ戦線・ガルバ大隊側の戦死者は20人である。クルドの役人が一人死亡した。捕虜となったクルド兵は35人、捕虜となったヌスラ・ガルバは11人である。

この日の戦闘後、双方がセレカニエの兵を増強した。1122日までに、クルド軍は400人に達した。自由シリア軍側は、ヌスラ戦線100人、ガルバ・シャム大隊100人である。自由シリア軍の兵数はYPGの半分にすぎないが、政府軍から捕獲した戦車3台がある。

戦死者の数からわかるように、19日・20日の戦闘は犠牲が大きかった。自由シリア軍側は3人の指揮官を失った。両者ともに痛手を負い、戦闘後、互いに相手を非難した。

クルド人活動家は述べた、「イスラム原理主義の部隊がいたため、クルド住民は自由シリア軍から離反した」。

クルドの政党「クルド国民会議」も自由シリア軍を批判し、「そもそも自由シリア軍が町にいることに意味がなく、正当性がない」と言った。

自由シリア軍の司令官リアド・アサド将軍は、戦闘の責任をガルバ・シャム大隊に帰した。「戦闘を引き起こしたのは、クルドとアラブの良好な関係を破壊しようとする連中だ。ガルバ・シャムは自由シリア軍と無関係だ」。

 

20日の戦闘に対する批判の応酬があったににもかかわらず、1122日も衝突があり、ヌスラは8名の死者を出し、クルド側は兵士1名が死んだ。

1123日、PYDが発表した、「敵を25名殺害し、20名を負傷させ、3台の車両を破壊した」。

 

同日1123日、2日間の停戦が発表された。

クルド軍とヌスラ戦線・ガルバ大隊との間で、正式な停戦のための交渉が始まった。

1124日、停戦が成立した。しかし停戦は2週間後、破られる。126日、戦闘が再開される。

クルドと反政府軍が休戦中だった123日、シリア空軍がマハッタ地区の警察署と郵便局を爆撃した。10人死亡し、数十人が負傷した。トルコから救急車がきて、21人の負傷者を病院に運んだ。シリア空軍の爆撃に対し、トルコは数機のFー16戦闘機をディヤルバクルからスクランブル発進させた。

 

1212日から14日まで、自由シリア軍は、セレカニエ市内に向けてロケット砲を発射した。またセレカニエの周辺の町で戦闘を開始したが、失敗に終わった。

1215日、再び停戦交渉がおこなわれ、翌日停戦について合意した。17日地元のクルド人兵士とアラブ人兵士の間で停戦が実現した。

停戦の条件は、双方が市内から兵を引き上げ、市を取り巻く検問所を共有し、市の行政を地元の非戦闘員にゆだねる事だった。地元民とは、クルド・アラブ・チェチェン・キリスト教徒である。

戦闘は停止したものの、双方の戦闘員は市内にとどまった。停戦の実効性が危ぶまれた。

2013年の11日~5日、YPGの第一回総会がデリクで開かれた。

 

  

 

総会では、YPGの命令系統を明確にすることが決定された。当然セレカニエの状況も議題になった。PYDの党員たちは強調した、「シリア国民が団結して戦うべきである。アラブ人反政府軍との信頼関係を築くことが重要である。この点で、彼らがPYDの旗の隣に自由シリア軍の旗を掲げたことは、良い兆候である。以前はYPGの支配地で自由シリア軍の旗を掲げるものなら、YPGは旗をあげた者を誘拐したり、脅迫したりしたのである」。

この会議はセレカニエの停戦を後押しするものだった。しかし戦闘は続いた。

 

117日の夜明け、約300人の反政府軍が、トルコからセレカニエに入り、迎え撃つクルドとの間で激しい戦闘が開始された。トルコから3台の戦車が侵入したが、クルド兵はその1台を奪い取った。3人のYPG兵が死亡し、7人の反政府軍が死亡した。

反政府軍の指揮官がYPGを非難した、「YPGは停戦を破り、発砲し、我々の仲間15人を殺した」。

18日・19日の戦闘で33人が死亡した。反政府軍の聖戦士の死者が28人で、クルドの死者は5人である。

 

21日の戦闘で、クルドの司令官1人が死亡し、反政府軍20人が死亡した。4人の住民が死亡した。

22日から24日までに、クルドの司令官2人が死亡した。

25日、反政府軍2人、クルド軍1人が死亡した。

避難した住民が反政府軍を非難した、「彼らは、市内にいるクルド住民に配慮しない」。

同じく25日、自由シリア軍がアザディ党の党員4人を誘拐し、PYDに捕らえられている自分たちの仲間との交換を要求した。アザディ党はPYDに批判的なクルドの政党である。

 

128日、反政府軍は市庁舎と警察署を攻撃し、クルドと戦闘になった。

翌日クルド軍は反政府軍が拠点としていた市内の建物を攻略した。この日、反政府軍は4人負傷し、4人死亡した。戦闘が激化しており、反政府軍の数が減っていた。援軍が必要だった。その晩、かなりの数の反政府軍がトルコの国境を超え、セレカニエに入った。援軍を得たが、反政府軍は形勢を変えることはできなかった。

 

130日までに、YPGはほとんどの反政府軍をセレカニエから追い出した。アッシリア人のキリスト教会も奪いかえした。

この日、自由シリア軍はシリアクルド民主党の党員のひとりを誘拐し、拷問したうえ殺害した。シリアクルド民主党はPYD(民主統一党)と対立する政党ブロックに属している。遺族が遺体をダルバシヤの町の検死官の事務所に運ぼうとすると、YPGの検問所は通過を拒否した。

   

131日、YPGはフランスの救急車を奪った。フランス語の文書があった。トルコは救急車でアラブ人に武器・装備を送っている、とYPGはトルコを非難した。

 

    <停戦への努力>

11月の停戦は破られたが、平和への努力が再びはじまった。

123日、反政府軍はクルドとの仲介人として8人の委員を選定した。委員の一人は「クルド国民評議会」の党員である。クルド国民評議会(KNC)はPYDに反対する野党が集まった政党ブロックであり、反政府軍のアラブ人に歩調を合わせようという傾向がある。

2月初旬、ともかくいったん戦闘を中止し、2度目の正式な停戦を実現すべく、話し合いが始まった。

 

クルド最高評議会の代表とアラブ反政府軍の代表が会見し、停戦の条件について話し合った。この停戦条件は、セレカニエだけでなく、クルド全域に適用される。しかしクルド人の活動家は、3か月も戦闘を続けた両者が、クルド全域で停戦するとは、とても思えないと語った。自由シリア軍系の、「ハサカ県アラブ革命軍事評議会」は、クルドとの停戦を拒否した。「クルドは反政府軍の一員とは言えない。クルドの支配を受け入れることはできない」。

 

反政府軍の一員であり、キリスト教徒のマイケル・キロが停戦交渉の進行役を務めた。交渉の過程で、意見の違いが明らかになり、気まずい雰囲気になった。交渉は、たびたび決裂しかかった。

ハサカ県アラブ革命軍事評議会は、次のことを要求した。

①町と国境検問所はすべて、シリア国民連合の管理下に置かれるべきだ。

②自由シリア軍系の戦闘員だけが町を支配すべきである。

PYDは、合法的な政府であるシリア国民連合に従わければならない。

④ハサカ県でクルドの旗を掲げてはならない。

クルドの諸政党は4つの条件をあっさりと拒否した。クルドは双方の戦闘員が町から去ることを提案した。そして両方の政治的代表で構成される合同評議会に、町の統治をゆだねることを提案した。

 

219日、YPGとアラブ反政府軍との停戦合意が、セレカニエで公表された。一週間戦闘はなかった。合意の内容は以下のとおりである。

①外部の戦闘員はセレカニエから退去する。

②自由シリア軍とYPGが合同して検問所を設定する。これによって、セレカニエへの出入りが自由になる。

③民主的な地元の評議会を創設し、これが町と国境検問所を管理する。

④近い将来、アラブとクルドが協力して、警察を組織する。

⑤自由シリア軍とYPGが協力して政府軍と戦う。

自由シリア軍は地域のいくつものアラブ反政府軍を代表して合意文書に署名した。ヌスラ戦線とグラバ・シャムはそれぞれ別個に署名した。

仲介人役のキリスト教徒マイケル・キロは、両軍の戦闘員は町から退去したと報告した。

 

   く対立の根は深い>

しかし数人の活動家は、停戦の実現を疑っている。イスラム主義の戦闘集団、とりわけグラバ・シャムは、けしてクルドの権利を認めないだろう。

クルド人活動家の一人が言った、「いずれの側も、すぐにでも停戦を破棄しかねない。自由シリア軍の軍事評議会はこの地域では影響力がない。それだけでなく、軍事評議会はこれまで矛盾した発言をしてきた。この停戦合意は無意味だ」。

 

停戦合意が調印されてから3日後、自由シリア軍の最高指令官サリム・イドリス将軍が、停戦合意を否定した。理由は、PYDPKK及びイラク・イランのクルドと結びつきが強いからである。

これは、4国にまたがるクルドの連携を恐れるトルコの発想である。専門家によれば、イドリス将軍はトルコの立場を代弁している。トルコは、クルドと戦うアラブ人を積極的に支援した。救急車で武器・弾薬をかれらに届け、負傷者をトルコの病院に運んだ。

反政府軍の指導者は、トルコの支援されていることを認めている。

 

一晩中戦ったあげく、717日、クルド軍はイスラム戦士をセレカニエから追い出した。またトルコへの越境地点を確保した。

9人のイスラム戦士が死亡し、2人のクルド兵が死亡した。

   <PYDの戦略>

PYDの指導者サレフ・ムスリムによれば、セレカニエをアラブ人が支配することは、2つの結果を生む。

①アレッポ県ノクルド地域がハサカとの連絡を失い孤立する。このことにより、自由シリア軍は、クルドの力をつぶすことが容易になる。

②自由シリア軍はトルコからの補給線を獲得する。これは重要な意味を持つ。生命線を獲得することによって、アラブ反政府軍はシリア東部の広い地域を支配することが可能になる。ハサカ市も彼らのものになるだろう。

   <反政府軍の戦略>

反政府軍の指導者は、彼の部隊はハサカ県をクルドの好きなようにはさせないだろうと言った。彼ナワフ・ラゲブはハサカのアラブ部族の出身であり、長年クルドと争ってきた。ハサカ県には農産物と石油があり、シリアで最も豊かな県である。

 

<自由シリア軍によるセレカニエ攻撃の余波>

201211月上旬、自由シリア軍がセレカニエの政府軍を攻撃した、と冒頭に書いた。この攻撃は、別の場所で副産物を生んだ。

セレカニエが自由シリア軍の支配するところになったのを見て、YPGは他の町も自由シリア軍に奪われることを恐れた。YPGは自由シリア軍に先んじて3つの町を攻撃した。

1110日、YPGはダルバシヤとテルタメルに残存していた治安部隊と行政施設を攻撃した。

1113日、YPGはデリクの政府軍を追い出した。

 

    

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