2011年シリアの首都ダマスカスではデモは起きず、2012年以後の武装反乱においても、武装グループの支配地となることはなかった。シリア内戦を理解するうえで、ダマスカス市民がアサド政権を支持していたことを忘れてはならない。シリア内戦は地方の反乱だったのである。シリア第2の都市アレッポと第3の都市ホムスにおいても大規模デモは発生せず、デモが武装反乱に移行したとは言えない。シリア内戦は大衆運動を背景にした革命ではなく、大衆の支持が少ない状態で始まった武力革命である。多数の市民のデモが武装反乱に移行したのはダラアだけである。シリア全体として見ると、2011年の平和な大衆デモは低調に終わり、2012年になって武装闘争が始まったのである。エジプトでは大規模な大衆デモによって、平和的に新政権が誕生した。シリアはエジプトと非常に違う。2011年シリアでは革命と呼べる大衆運動は起きなかった。
米国バージニア州のジョージ・メイソン大学の教授はシリアとエジプトの違いについて書いている。シリアという国の特徴がよくわかる。
======《シリアで革命が起きない理由》=====
Why Syria is Unlikely to be Next… for Now
By Bassam Haddad
Arab Reform Bulitin 2011年3月9日
Carnegie Endowment for International Peace
アラブいくつかの国では、数万の国民が変革と新政権の誕生を求め、デモをしている。しかしアラブの中でも豊かな産油国ではこうしたことは起きていない。シリアは貧しい国であるが、大きなデモは起きていない。シリアはアラブの強国であるが貧しく、国民は多くの不満を抱えている。シリアの国民はチュニジアのような圧政とエジプトのような貧困に苦しんでいるにもかかわらず、怒りの声をあげない。
シリアの統治権力はヨルダンやモロッコのように世襲制であり、支持基盤は国民の10%に過ぎない。それでもシリアの大衆運動は低調である。なぜだろう。政府を批判した者には残酷な制裁が加えられる。その恐怖が抑止となっていることは確かである。しかし事情はもっと複雑である。
自国民に対する暴力は多くの場合不満を黙らせる手段として有効であるが、常に危険をはらんでいる。一か八かの賭けであり、一歩間違えばすべてを失うことになる。
〈シリアとエジプトの違い〉
シリアのメディアが伝えることを見れば、またシリアについての報道を見れば、シリアの人々が近隣のアラブ国民の不満に共感していることは明らかである。そしてシリアでも2月4日デモが計画された。この日を「怒りの日」と呼び、参加を呼び掛けた。しかし集まった人数はとても少なかった。それでも警官は彼らを規制し、なぐった。最近の数週間も、時々デモが起きている。これらのデモは政権の打倒を叫ぶものではなく、エジプトなどの場合と比較にならないほど小規模だった。
エジプト国民は言論の自由、表現と団体運動の自由、完全に自由な多数政党制を獲得している。元祖イスラム原理主義グループであるムスリム同胞団さえ公認されている。もっともムスリム同胞団の中核は革命組織であり、政党は外郭団体に過ぎないが。このようにエジプトの社会は自由だったため、国民の抗議運動は大胆だった。
エジプトと違ってシリアには政治的自由が存在しない。1月30日アサド大統領はウォール・ストリート・ジャーナルとの対談で「シリアはエジプトとは違う」と述べた。彼が意味したこととは逆の意味で、これは正しい。アサドは国民から政治的自由を奪っておきながら、国民が自分を批判しないので、自分は国民に支持されていると錯覚していた。
ムバラク政権はシリア同様抑圧的だったが、エジプトの社会は自由で開かれていた。自由な新聞と複数の政党があり、最近10年間政治活動は活発だった。政治活動家は支持者を増やし、各種のネットワークを利用して動員をかけた。時間とともに大衆運動が拡大し、幅広い層の国民が大衆運動に参加した。2004-2010年、中規模ないし小規模の労働運動が全国で発生した。過去10年の間に、大衆運動を指導する人物やグループが登場し、彼らは大きな政治力を持つようになった。こうしてエジプトの大衆運動は極めて活発になった。これはシリアと対照的である。シリアには自由な大衆運動は存在しない。
シリアでは富裕層と貧困層の2極化が進み、極貧層が増えていたが、経済的なセーフティーネットが存在しなかった。シリアの社会経済状況はエジプトより悪かった。また政治によって生まれた貧困もある。長年のバース党政権カ下で政権と結びついた人びとは優遇され、それ以外の人びとはうち捨てられてきたため、現在両者は分断されている。シリア国民の多くが貧困に耐え、政権に不満を持っている。それなのに、なぜシリア国民の不満が爆発しないのだろう。
エジプトは単一民族であるのに対し、シリアは多民族・多宗派の複雑な社会である。さらにシリアの場合、地方の独立性が温存されており、国家統合が不完全である。このようにシリアの社会は多様で分断されているので、国民がまとまって不満を表明することがない。シリアで革命を起こすことは難しい。政権によって弾圧される恐怖も大きいので、シリア国民はおとなしくしている。
〈シリアがチュニジアやリビアと違う点〉
チュニジアには自由な政党が存在せず、反体制的な政治活動が過酷に弾圧される点でシリアと似ている。にもかかわらずアラブの春と呼ばれる民衆革命はチュニジアから始まった。シリアの場合、政府・政党・軍が独裁者と密接に結びついており、それぞれが単独で反乱を起こせないようになっている。現大統領の父ハフェズ・アサドは統治機構のすべてに信頼できる者を配置した。それに対し、チュニジアの軍と警察は大統領からある程度独立していた。そのため軍と警察はベン・アリ大統領を切り捨てた。シリアではこのようなことが起きない。ハフェズ・アサドは空軍の将校であり、軍の実力者である。彼は軍に依拠して大統領になったのである。
リビアもチュニジアと同様であり、統治機構が反乱側に回った。カダフィは国家の頂点にあると思い込んでいたが、政府・政党・軍・経済人との関係が緊密ではなく、彼らは危機に際しカダフィと運命を共にする気がなかった。
これと対照的に、シリアの独裁者は宗派を超えたビジネス階級を支援してきた。これらの経済人の多くはダマスカスの伝統的な商業地区の出身者だった。従ってダマスカスで反乱が起きることはない。もしシリアで反乱が起きるとすれば、北部においてだろう。
〈シリアの対外政策〉
米国とイスラエルは中東で残酷な行動をしてきたので、アラブの民衆は両国を憎んでいる。シリアは米国とイスラエルに抵抗してきたので、正統な国家と理解されている。特にシリアがヒズボラとハマスを支援していることは、高く評価されている。ヒズボラとハマスはアラブの抵抗のシンボルである。親米的なアラブ諸国の指導者はアラブ世界で評判が悪く、反対にバシャール・アサドは非常に人気がある。
しかしながらアサド政権に対する国内の不満が解消されるわけではない。エジプトの民衆がムバラク政権に怒りを示したのは、彼の親米的な政策とイスラエルとの共謀が原因ではない。アラブ世界は新しい時代に入っており、親米的な政権も米国の影響から脱し、自立へ向かっている。そのためエジプト国民の不満は外交政策にはなかった。
エジプトの民衆がアラブ民族主義を重視していることに変わりはないが、かれらが求めたのは国内における民主政治の実現である。国民の声が政治に反映する社会を求めたのである。エジプトを始めアラブの新しい波はシリアに影響を与えずにはいない。これまで成功してきた恐怖政治が通用しなくなるかもしれない。
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