京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

『永遠の異邦人藤田嗣治』日曜美術館

2014-01-25 06:55:09 | 美術・博物館

今回の日曜美術館は、『永遠の異邦人 ~藤田嗣治・知られざる実像~』です。



1913年、一人の青年が新婚間もない妻を日本に残し単身パリに渡りました。
追い求めたのは西洋画でも日本画でもない、自分にしか描けない世界です。

後に“乳白色の肌”の裸婦像で、パリ画壇の頂点 に登り詰めた画家・藤田嗣治。





おかっぱ頭、ロンドメガネにちょび髭、エキゾチックな風貌で社交界を賑わせ、パリで最も有名な日本人となりました。
夜ごと街へ繰り出し、芸術家たちと大騒ぎ。
奇抜な言動で注目を集め、周囲からはお調子者を意味する“フーフー”と呼ばれました。
藤田はいかにして成功をつ かんだのか。戦後フランスに帰化し、日本との関係を断ったこともあり、その詳細はわかって いませんでした。
ところが去年、日本に残した妻に宛てた大量の書簡が公開されました。
そこには、世界を舞台に成功してみせると野心とビジョンが綴られていました。





手紙には、隠された葛藤と、画家としてパリで生き残るための戦略が赤裸々につづられていました。
今回番組は、去年秋にリニューアルオープンした秋田県立美術館を訪ねます。




迎えてくれるのは、藤田が描いた幅20メートルに及ぶ壁画「秋田の行事」(1937)です。縦3.6m、横20mの大作です。
雪国に生きる人びと、秋田を代表する祭りや四季折々の行事、藤田50歳のとき、秋田の全貌を描くと書き上げた作品です。





















パリに行く前の作品
「自画像」1910




番組は、美術館の展覧会場にパリへ渡ってか ら大成功を収めるまでの傑作をいくつか紹介していきます。

パリに渡った藤田は、絵が売れず貧困のなか、きっかけをもとめて、ルーブル美術館で、西洋の芸術を原点から学びます。

その一方で、最先端の芸術にも手をのばします。
ピカソ(1881-1973)です。
この頃、ピカソはキュビズムに傾倒しています。

ピカソ「ギターを持つ男」1911ー13





そのピカソから大きな影響を受けた作品を残しています。

「キュビズム風物詩」1914





パリでの作品
「風景の中のヴェールの女」1917






初めての個展に出品した作品、これもキュビズムの手法です。

「碁を打つ人々」1917





アンリ・ルソー「詩人に霊感を与えるミューズ」1909
藤田はこの絵に衝撃を受けます。





パリに渡って5年、生涯描き続けた子供の肖像画です。
「二人の少女と人形」1918





「春(扇のための図案)」1917





パリに渡って9年、藤田の名前を世に知らしめた代表作が生まれます。
この作品の乳白色が藤田の色です。
白磁を思わせるなめらかな乳白色の地塗りに、面相筆で繊細な描線を重ねています。
パリを代表する展覧会で絶賛を受けます。

「ジュイ布のある裸婦(寝室の裸婦キキ)」1922
後日、画像が間違っていたため訂正しました。すみません。






「裸婦」1923






「横たわる裸婦」1922






「自画像」1929





藤田45歳のとき、それまでにないインスピレーションを求め、新しい恋人と中南米への旅にでます。
メキシコで、パリで交流した画家の壁画に感動します。

デイエゴ・リベラ「メキシコの歴史」1929




2年半の中南米旅行を経て、世界で認められる画家となった自負で日本に帰国します。
しかし、日本で待ち受けていたものは、アンチ藤田運動、パリでの派手な暮らしぶりが激しく中傷されます。
国辱とまで言われます。

藤田は深く傷つきます。
そんななか、手をさしのべたのは、秋田の豪商、平野政吉です。

平野は藤田の絵を買いつけ、秋田に藤田の美術館をつくることをもちかけます。

そして制作されたのが冒頭の「秋田の行事」なのです。