この国が何か新しいことをやろうとしてカタカナ語(ほとんど英語だが)を遣うときは、国民は気をつけなければならない。
国民に真意や問題の本質を知られたくない時、施策に後ろめたさを感じる時、官僚や政治家は外国語をよく遣う。戦後の似非民主主義のもとで、この権力の真意を韜晦する手法は常態化した。外国語にしておけば、問題点を有耶無耶にするのに都合が好い。国民の多数が横文字に弱いことを知っていながらやるから悪辣である。
「Go to travel 」「Go to eat」、政府高官か党有力者か、誰が言い出したのだろう?日本語ではいけなかったのか?万一コロナの第3波が前の2波に比して悪化したり長引いたら、マスコミは言い出しっぺを探し出すに違いない。
第3波の感染者増大が医療機関を直撃すれば、その施策を推進した政治家の責任は問われるだろう。その後感染者数が甚大になれば、政権への批判は免れない。
政策に外国語が多用される時、私たちは政権の真意に胡散臭さを感じ取らなくてはいけない。真意がわかるまで、率先してその語に馴れるのは控えたいものだ。したがってメディアには、慎重であってもらいたい。早々と記事の見出しにアルファベットを踊らせるのは、政権の旗振りと思われても仕方がない。
戦前の軍国主義の時代は、国粋主義が寄り添っていたから、社会は外国語を使うのを慎んでいた。対米戦争中は敵性語として、英語を使えば検束の対象になった。大政翼賛社会は横文字を一切許さなかった。
敗戦の後は、アメリカ軍の占領とその後の軍政よって、堰を切ったように国内に英語が氾濫した。占領行政の下で、官僚に英語の遣い癖が定着した。官僚ばかりではない。貿易による経済復興に邁進する産業は、英語抜きでは成り立たず、生活者の身の回りに横文字が溢れ、それは現代に続く。
今日の日本の政治・行政に於ける横文字の狡知な利用法は、アメリカ占領下の時代の残滓と言えるものかも知れない。
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