権力というものの構造は、それを行使する活動と維持する活動とに別れる。民主国家における権力の行使は、法と社会的正義に則って、公明性と透明性が担保されていなければならないが、権力の維持に関しては、社会的であれ個人的であれ、正義の埒内に収まってはいない。人が運営する組織である以上、権力の意思には、権力者個人の人格・識見・教養など人間性が反映する。好むと好まざるとに拘らず、権力の意思を実現しようとして、隠蔽や陰謀に手を染めなければならなくなる時があるだろう。
「権力は腐る」という言葉は、権力が生ものである面を端的に示している。どんなに理想的な制度を創っても、権力は経年劣化を免れない。人間が生身であり、権力が人間で成り立っている以上、これは避けられない。権力の任期を限るのは、経験的に経年劣化に禍されてきた歴史の教訓があるからである。権力の行いを個人的正義感や道徳・倫理で批判したり糾弾しても、議論は噛み合わない。権力の座に在る側の人間にとっては、権力を守り抜くことこそが正義である。
したがって、正義は政権を判断する基準とはならない。誠実な政治をしていても、成果を挙げられない政権は選挙民には評価されない。汚濁に塗れた政権運営であっても、国民の生活を向上させることができるなら、選挙民はその政権を称賛する。
政治に個人的正義は通用しない。最大多数の幸福の前には、それは無意味であろう。
政治というものの本質を知れば、国にとって情報機関とか諜報機関が他に優先して必要不可欠な存在であることは理解できる。正確な情報があって初めて、外交や内政に的確な政策を打ち出すことができる。
諜報には、外向きの諜報活動と内向きの諜報活動とがある。外向きの諜報とは、所謂スパイ活動である。敵性国家や仮想敵国の情報収集と分析、謀略や工作である。内向きの諜報とは、国家の機密の保持を目的とする防諜と治安維持のための情報収集活動である。歴史的に見て、我が国は内向きの諜報に熱心だった。鎖国、幕藩時代の名残りである。言語能力の厚みの問題もあった。今日でも、内向きの諜報の方が得意だろう。
情報の収集や分析ならびに工作には、それぞれに応じた高度な専門性を有する人材を育成しなければならない。
諜報と言えば、アングロ・サクソン系民族のお家芸で、英国は歴史的に優れた諜報機関をつくり、優秀なスパイを輩出してきた。全くイギリス人は諜報員に成る適性が高い。孤独を好み観察力が高く目立ちたがらない。
英国では、諜報は知性で国家・国民に奉仕する極めてグレードの高い職務と位置付けられていて、それは揺るぎない。
英国や米国のエリートは、とりわけ情報機関に勤務することを好み、行政官僚より情報機関に入りたがる人が多いという。
アメリカやイギリスの諜報機関が優秀なのは、組織の問題ではなく、優秀な人材が諜報機関で働くことを好むからである。気質が諜報に向いていることもさることながら、諜報組織の機能が発達していることも大きな要因だろう。
日本は敗戦により、それまで明治の富国強兵化以来保持していた諜報機関(情報組織)をすべて失った。
現在の「内調」と呼ばれる内閣調査室と公安調査庁は、現行憲法のもとでの最低限の情報機関で、この国を取り巻く韓国・北朝鮮・中国・ロシア・アメリカの情報機関とは、量においても質(専門性という意味で)においても、その規模は比較にならない。特に外国の情報は、専らアメリカの情報機関に依存せざるを得ないようだ。
外向きの諜報こそ、諜報活動の精華である。諜報活動は専ら頭脳に依存する仕事で、諜報員の存在は秘密性を帯びて単独行動が基本なので、個人主義の西欧の国々の知的エリートたちはスパイになりたがるが、特にアングロサクソン系すなわち英・米国人にその志向がより強い。
ロシアやドイツも、地政学的にも歴史的にも諜報活動は蔑ろにできない立場で、それぞれ民族的にもその能力は卓越しているようだ。一方、ラテン系の民族は、気質的に諜報の世界には向かないと見られている。秘密が保ち難いのかもしれない。
今日ユダヤ人という人種・民族を特定することは困難だが、イスラエルの諜報機関は世界のトップクラスにある。彼の国は諸民族の集合体だから、人材には事欠かないのだろう。
対するアラブ人は、諜報活動には気質的にあまり向いていないようだ。諜報には沈着冷静な気質が何よりも重要である。
日本は歴史的に諜報を蔑視する傾向が強かった。乱破(らっぱ)・素破(すっぱ)・忍び・庭番・間諜などの言葉には、諜報を賤しみ疎ましく思う心理が顕れている。
滑稽なことに、明治の新政府は、なるべく人に目立たないことが必要な諜報組織を特務機関と呼び、人の注意を喚起させる名称にした。並の者には出来ない任務を際立たせる必要があったのかもしれないが、このあたり、日本人の諜報音痴を自ら露呈してしまっている。
名称からして、英米のIntelligence Service(諜報機関)やIntelligence Agent(諜報員)の位置付けとは隔たりが大きい。諜報の重要性への認識が甚だ薄く、軍師などへの過大な評価と較べると、諜報員への評価が著しく低い。したがってエリートは諜報を目指さない。これもおそらくは、古代中国由来の観念的な非合理主義的思考の影響だろう。
諜報という言葉は戦後遣われなくなり、今日では情報という語に包含されている。しかし情報という日本語は、意味する範囲が広すぎる。諜報という国語を遣うのが妥当である。とにかくわが国では、諜報に対しては抵抗感が強くあるようで、初めから諜報を志顔する知的エリートはごく少数である。作戦参謀級の優秀な人材を集めた諜報機関がないことは、国の存立を危うくする。諜報を臭いものに蓋をするような扱いでなく、警察・検察に勝るとも劣らない極めて重要な職務であることを、広く社会に周知をはかり、知的エリートを惹きつけるようにしなければならない。
戦争においては、作戦は諜報の確かさに依存する。戦争の強い国は諜報能力も高い。実務に長けた諜報機関をもたないということは、たとえ自衛であっても、戦争はできないということである。最新鋭の軍備を具えても、目と耳にあたる諜報機関なしに戦争はできないのである。戦争まで行かなくても、外交は諜報活動と不可分である。日本の外交下手は諜報力の不足に由来する。
諜報にダーティーな面があるのは避けられない。それが諜報機関の運営に一抹の暗さをもたらしている。
自発であれ他発であれ、1947年に、日本は世界で初めて(先駆けて)、諜報機関をもたない、謀略や工作をしないネアカの国家になった。世界に戦争をしないと明言した。そのような類い稀な国である。AI時代の諜報戦がどのようなものになるのか想像もできないが、現在のそれは、私たちが知らないところで着々と進展しているに違いないのだが・・・
戦争をしたら、双方共倒れになるこの時代、諜報機関をもたないこの国が大国であるのは、世界中から奇異の目で見られていることだろう。諜報機関を拡充し、目と耳をより確かなものにし、奇異の目がいつか尊敬の目に変わる日が来ることを信じたい。
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