道々の枝折

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倫理と論理

2024年10月01日 | 人文考察
論理は言葉による説明の筋道。倫理は人の人たるに相応しい筋道。倫理はどこまでも、自然人に関わるものである。人偏を強く意識しなくてはならない。

しかるに企業倫理とか政治倫理とか、自然人でない存在に倫理の語を遣うのは、意味的におかしい。法人企業や官公庁自治体などの団体には、コンプライアンス(法令遵守)があるばかりで、倫理の語を遣うのはまやかしである。無いものをあるが如く錯覚させる用法は、論理を混乱させる因である。
企業名に個人の敬称である「さん」を付ける日本人独特の言語感覚が、企業倫理などという論理的に意味不明な言葉を生む。倫理はあくまで、個人に限られるものである。

私たちの社会は、資本の論理、企業の論理、集団の論理など、社会的、経済的、政治的に論理をもって構築された価値を奉じて生きている。論理を優先することで、あらゆる組織が秩序を保ち整然と機能することができる。そのような場では、人倫はどうしても論理に立場を譲らざるを得ない。

いかに論理が明解でも、論者の行状が倫理に悖っていては、その人は正しい道理に従って生きていない。過日議会から不信任案を議決され、現在失職中の元兵庫県知事は、それを絵に描いたような人物だったらしい。
県の役人や議員たちは、どうして斯様な人物をもっと早く排除出来なかったのか。

個人すなわち私に倫理はあっても、私の集まりの公となると、そこに倫理が占める余地は少なくなる。人が集まれば集まるほど、個人の倫理は鮮明さを失う。そして個人の倫理を標榜することは困難になる。個々人の利害は共通ではないからである。

もし企業倫理というものがあるとしたら、それは言葉だけのことで、人でないものにその実体があるはずがない。そこにあるものは最高執行者個人の倫理でしかない。企業の意思決定者、集団を動かす指導者の倫理があるのみである。

組織を貫いているものはただひとつ、論理しかないことを、改めて確認しておかなくてはならない。その伝で、政治倫理などという言葉も、極めて曖昧で意味不明な用語である。政治に倫理はないものねだり、政治家個人の倫理があるだけである。

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