道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

敬語について

2014年04月17日 | 随想
いつもの散歩道を日曜の朝9時頃に歩
いていたら、背後から「オハヨウゴザイマス」と声をかけられた。咄嗟に「今日は」と挨拶を返しながら振り返ると、浅黒く目の大きな、南方島嶼系の顔立ちをした青年が、自転車を曳きながら私の背後に迫っていた。

彼は私と並んで歩きながら、「ニホンゴハ ムツカシイデス」と嘆いた。朝なのに、コンニチワという挨拶を返されたことに戸惑った様子だった。

訊けば青年は、インドネシアから市内の企業へ研修に来ている身で、技術・技能と日本語の両方を学んでいる最中だと言う。きっと、日本語の敬語には悩まされていることだろうと想った。そして朝の挨拶は「オハヨウゴザイマス」と学習したはずのこの青年を、困惑させてしまったことに、些か自責の念を覚えた。

日頃野外で、通りすがりの人と挨拶を交わすとき、「今日は」ひとつで済ますのが年来の習慣になっている。その習慣は山歩きで身についたものだが、敬語形のない挨拶用語であることが、それを遣う最大の理由であるように思う。

「お早う」は「お早うございます」の省略形だから、年長者とか見知らない人には省略のない形を遣わねばならない。爽やかな朝の散歩時に、相手によって挨拶の言葉を遣い分けるのは、真率さに欠けるし煩わしくもあり、「今日は」一本で通して来た。

敬語が私たちの社会の秩序と安定に、どれほど寄与して来たかは計り知れない。しかしその反面、自分たちの言語生活を窮屈な、表面的で形式的なものにして来たことも否めない。対話や会話から自由を奪い、表現を拘束するものであるのは間違いないだろう。

心からの敬意は自ずから言動に顕れる。そもそも敬語はそこから生まれたものだと思われるが、広く一般に多用されるようになれば、表敬の形式化は避けられない。

古い時代ほど敬語表現が豊かで厳格であったことを考えるとき、私たちの祖先たちは、大昔から社会的な上下関係に極めて過敏な神経をもっていて、敬語が日常会話の隅々にゆきわたっていたと想像される。この平等性よりも位階序列の明認に重きを措く心性は、事大主義という民族的属性と重なるもので、おそらくこの列島に住み着く以前の、故地(詳しく知らないがおそらく中国大陸の何処か)での、数千年から数万年に亘る期間の言語生活において獲得した、精神的な遺伝形質と言ってよいものかも知れない。

事大主義は必然的に権力の集中を招く。絶対的な権威というものが成立するには、ヒエラルキーを構築し安定させるための符牒が必要で、敬語がその役割を果たしてきたのではないだろうか。したがって、その国の言語に敬語の言辞や語彙が多いか寡ないかは、その社会が専制的であったか民主的であったかの度合を示すバロメーターと見てよいだろう。

そうかと言って、前記の事大主義的心性を共有した私たちの先人達が、目上目下の序列を気にして言語を使い分ける煩わしさに辟易していたかというと、けっしてそうではなかっただろう。

敬語は、使われる側にとって甚だ耳障りの好いもので、また一方的に表敬ばかりで終わる人生というものは少ないから、程度の差こそあれ、人々は結構敬語を楽しんできたと思われる。敬語を使ったり使われたりしながら言語生活を楽しみ、延いては、社会生活を円滑に運んで来たのだろう。

一方、言語の情報伝達の役割というものを考えるとき、敬語は伝えるべき情報の実質的な内容とはまったく関係のない言葉であって、情報伝達の効率を著しく損なうものである。内容と無関係な語句の混じった言辞が、速やかで確実な情報伝達の上で甚だしい障害となることは想像できる。

前世紀の太平洋戦争中、日米両海軍の艦船内での報告・連絡などの情報伝達速度を測定比較した米海軍の研究があったという。その結果、彼我の差は歴然と認められたらしい。これは、ふたつの言語の発話速度の違いというよりも、日本語の敬語の使用量の多さに原因があったに違いない。

当時の艦船間のモールス電信による無線交信では、敬語の省略は必然だったが、艦内で上官に対する口頭での報告・連絡には敬語が不可欠であったろう。敬語がむやみに多い側の言辞は、同じ事柄を伝えるのに敵方より仰々しく長くなる。当時の日本の軍隊では、上長への敬語表現は極めて厳格で、今日では遣わないような丁寧語が軍隊用語として頻発されていた。米軍にも敬語表現はあるがきわめて少なく、その影響はほとんど問題にならない。

この情報伝達速度の差が、ミッドウエー海戦の敗因のひとつであったなどと聞くと、いかにも尤もらしく思える。戦闘の勝敗というものは数多くの要因が複合した結果だから、実際のところは解らない。

東日本大震災とそれに福島原発の事故の際の、1秒を争う緊迫した事態での現場と本社とのやりとりなども、戦闘中の艦船内の状況と似た状況であっただろうから、日頃使い慣れた敬語が対話速度の障害になったのではなかろうか?

自衛隊・警察・消防など、常に緊急事態に備える訓練ができている組織では、緊急時に敬語を省略できるようなマニュアルが整っていることと思うが、一般行政の官公庁では、この敬語による情報伝達の遅滞を、どう捉えているだろう?津波と原発事故以来、有事の対策や避難訓練が盛んだが、口頭での情報伝達の効率化は、もっと研究されてよいのではないだろうか?

情報社会の時代の今日、通信速度の高速化技術の進歩は著しい。その効果が大きくなればなるほど、情報の中身の口語の冗長さが、将来に亘って放置されるとは思えない。指示伝達の一秒の遅れが、大事を招くかも知れないのだから。

また、生産年齢の人口が減少している今日、外国人への労働力依存度は高くなる一方だろうから、急増する日本語学習者たちへの負担軽減を図る配慮は欠かせない。

江戸時代はそれまで使われていた敬語の簡略化が相当に進んだ時代だったらしい。現在の敬語も、この世紀中にはよりいっそう簡素化されることだろう。また、簡素化されなければならない。言語は生き物で、時代と共に変化する。敬語に神経質な時代は、好い時代ではない。

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