かつて月に2回ほどのペースで、豊橋へ通っていたことがある。40代の終わりごろから、かれこれ10年、通い続けた理由は、其処でなければ味わえない、旨いどじょう料理を食べるためだった。
客に懇切にアドバイスしてくれる登山用具店があると聞いて、豊橋に行ったのがそもそもの発端だった。その店「モンタニア」の隣に、こじんまりとしたどじょう・うなぎ専門の料理店があった。場所は松葉町の公園近く、萱町という所の「枡や」という店名だったろうか?外観と内装とから、戦後の早い時期から続いている店と推察できた。
其処のどじょうの蒲焼きは、開かず丸のまま5本ほどを串に刺してタレに浸し焼くものだった。香ばしく焼き上がった蒲焼に七味唐辛子を振って噛むと、どじょうの旨みが口中いっぱいに拡がり、なんとも懐かしいような心満ち足りる気分になった。これを肴に飲む燗酒も、どじょう汁で食べるご飯も、それまでに経験のない新たな味の発見だった。
ドジョウ、コイ、フナ、タニシ(今では天然物は口にできないが)など、沖積平野の川や池沼で獲れる魚介には泥臭みがある。また、泥土で育つ根菜のレンコンやゴボウにも独特のエグ味がある。この泥臭みやエグ味と日本酒(吟醸酒でないもの)とは相性が頗る好い。酒がこれら食材の泥臭みやエグミを消し、一方食材は酒の旨さを高める。相乗効果というものだろう。
米は泥土中から肥料分のほか諸々の無機物を取り込む。低湿地の川や池で成育する前記魚介も、泥水や泥中の餌を採り、泥土の成分を体内に取り入れる。したがって、泥土由来の物質を共に含有する日本酒とこれら魚介や根菜との間には、ある種の親和性や拮抗性のようなものがあり、それが相性の好さに繋がっているのかもしれない。
精米のときに米の不純物(泥土由来の物質も含まれる)を徹底的に取り除く吟醸酒では、このような作用は失われるだろう。「フルーティー」だの「ワインみたい!」などと評される吟醸酒は、シャンペンのように酒そのものの味と香りを愉しむ性質のものだから、泥臭さやエグミのほのかな名残りが持ち味の食品とは合わない。海魚よりも川魚、それもアユやヤマメ・アマゴなど海を故郷としている降海型の川魚より、河川の中・下流域で一生を暮らすコイ・ハヤ・オイカワ・モロコなどコイ科の魚を、各土地で生まれた伝来の調理法で食べるとき、私は日本酒の旨さをつくづくと深く感じる。普段口にできない珍しさもあってのことかもしれない。
その土地に一般的な食材や料理と地酒とは風土の産物で、互いに協調しあうよう、永い時と住民の舌によって、相性が高められてきたと思う。私たちの祖先は数千年以上、いや列島に住み着く以前を考えれば数万年以上の昔から、沖積平野に定住して暮らしてきた。その生活圏で最も容易に安定して獲れ、食物とする機会の多かった動物性蛋白源は、コイ・フナ・ドジョウなどコイ科の魚であっただろう。それらの魚に特有の臭みを消す効果の高い酒があったからこそ、常食することができたに違いない。味噌や醤油も、これら食材に対する消臭効果によって、調味料としての王座を獲得しているように思う。
かつて"照葉樹林文化"という言葉をよく聞いたが、インドシナ半島から中国南部、日本にかけて存在していたであろう"沖積平野文化"(それは稲作文化を包摂する)という言葉は、あまり耳にしたことがない。我々の衣食住には、その文化の色が濃いはずだが、存外この方面の研究はまだ不十分に思える。
この豊橋のどじょう・うなぎ料理店「桝や」では、私はもっぱらどじょうの蒲焼きばかりを食べ、うなぎを食べることはほとんどなかった。寡黙な親父さんが調理場でどじょうやうなぎを焼き、気さくで話好きの奥さんがそれらを客に出しながら会話する。当時70代に見えたふたりの意気はぴたりと合って、えもいわれない雰囲気を醸しだしていた。 50年近くは営業していたのだろう。
常連客が多く、中には開店当初から通っているという90代のご老体もいた。年々食が細くなるその馴染み客のために、それを悟らせないよう、どじょう丼のご飯を年々少しずつ減らしていると奥さんから聞いたことがある。
店の雰囲気とどじょうの味に惹かれて10年ほど通い続けたが、あるとき行ったら奥さんがひとりでどじょうを焼いていた。ご主人が病気で倒れ店と病院をかけもちしているのだった。事情を語る面持ちから、再起の難しい病であることが察せられた。しばらく間をおいて店を訪ねたら、ご主人は亡くなっていた。
その後2・3年は、味を惜しむ常連客のために奥さんが昼だけ店を開けていた。無口でいながら存在感のあったご主人の居ない店は、なんとなく寂しく感じられ、つい足が遠のいてしまった。あるとき山道具が必要になって、久しぶりに登山具店へ行ってみたら、隣のどじょう・うなぎ店のガラス戸は固く閉まっていた・・・。突然訪れた、哀切このうえないどじょうの味覚との訣れだった。
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