伊勢湾口に浮かぶ神島を訪れたとき、島山という言葉を実感した。この島は周囲4km、海抜171mを最高点に傾斜面がそのまま海に没し、平地はほとんど無い。船から見ると、樹木に覆われた島の姿は、海に浮かぶ山そのものだった。
考えてみれば、島というものは地勢のうえでは山と変わらない。海の水が干上がり、我々が海底から島を見上げることができるなら、粗々しい岩肌の山腹と、頂部のみに植生がある山容を眺められるだろう。逆に海面が大幅に上昇すれば、現在の山の多くは島嶼となる。島と山の根本的な違いは、基部が海底にあるか陸上にあるかだけのことである。
港の桟橋を抜け、三島由紀夫が「潮騒」執筆当時に寄寓した民家のある集落に入ると、道は急な登り坂になり、続いて階段が現れてきた。民家が絶えたその先は、断崖の上の岨道で展望が開けている。
歩きながら(これは山登りだ!)と思った。船から降りた桟橋が登山口とすれば、標高差170mの山・・・・。
多年親しんできた登山では、車で林道を登り詰めた最終地点の登山口から登ることが多い。4合目から5合目、中には、8合目以上まで車やロープウエー・ケーブルカーで行ける山もある。今や日本の登山のほとんどは、山の標高の半分以上を観光道路や林道を利用してアクセスできる。楽に山頂を踏めるのは有り難いが、その安直さが、山との係わりを浅くするのは否めない。遭難の増加とも無関係ではないだろう。
重い荷を背負い、長い山麓歩きと幕営の末に山頂を極める登山が、伝記の世界のものになって久しい。今や山の標高の高低は、登山の難易・内容を意味しない。その実質は、登降した標高差(正確に言えば累積標高差)と、歩き始めた地点の高さで知るしかない。
登山口を海面に準えるなら、今日の山歩きの大半は、島山に上陸するようなものと看做すことができる。登山口までの山体の大部分は歩かないのだから、そこは島の海面下と同じことだ。登山口が上昇すればするほど、山が島に似たものになるとは気づかなかった。
そうと分かれば事は迅い。今後は山と島を別物と見ないで、山めぐり、島めぐりを一纏めに楽しむことにしよう。
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