三方ヶ原台地を南北に貫く街道を北へ、浜松城から1キロほど行くと、街道の東側がほぼ30mの幅でスッパリ切れ落ちて断崖になっている地点が在る。その断崖から深さ10数mの谷が南東方向に台地をよぎり、谷の末端は城近くの低地に消えている。
それは三方ヶ原台地にできた亀裂で、谷の源頭にあたるこの絶壁を、地元の人は「犀ヶ崖」と呼んでいた。
谷の両岸は樹木に覆われ、昼でも薄暗い。城の北東を防御する天然の空堀の役目を果たしてきたように思える。この谷ができた年代は有史以前だろうが、その地質的な生成の事情はわからない。
谷底は整備されているようだが、降り口は分からなかった。
三方ヶ原での戦闘で、武田軍に惨敗した徳川軍は、辛うじて日暮れまでに城へ逃げ帰った。追撃してきた武田軍の先鋒は、城の搦め手(名残口)の近くまで迫り、そのまま犀ヶ崖の南西に夜営の陣を張った。
日中の一方的な敗北に気の収まらない徳川の将士の一部が、夜陰に紛れ、武田の夜陣を襲撃したと伝えられている。詳しい史料がなく、あくまで伝説の域を出ない。
夜襲を受けた武田軍は混乱し、犀ヶ崖に落ちて多くの死傷者を出したという。もし事実だとしたら、ごく小数の鉄砲隊による、乱射攻撃だったと想像される。昼間大敗した徳川方が、夜襲で一矢報いた逸話である。
翌日武田軍は、何事もなかったかのように、「風林火山」の旌旗を翻しつつ三方ヶ原から部隊を撤収、台地北端の祝田の坂を粛々と浜名湖に向け下った。
浜名湖に注ぐ都田川畔の刑部(現浜松市北区細江町中川)に至ると、そこを駐屯地と定め、翌年1月まで兵を動かさなかった。
信玄の病状は、疾風迅雷をもって鳴る甲州流の機動原則を無視せざるを得ないまでに、悪化していたようだ。
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