道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

リクルートスーツ

2019年04月11日 | 人文考察
久しぶりに、平日のJR電車に乗った。この春社会に出たばかりの会社員と思しき人たちの服装を見て驚いた。
 
男女共に黒のスーツが制服の、全員がひとつ企業の社員かと思った。表情は若々しいが、誰もが黒一色の服装は地味というより異様である。四月の駅や乗り物は、まさに世に出たばかりのフレッシュなリクルートたちで満ち溢れている。時代を担う初々しい青年男女の姿は眩しく頼もしくもある。
 
しかし、彼らの通勤服はいただけない。男性は揃いも揃って黒のスーツ。ネクタイを外しているから、冠婚葬祭の帰りかと見紛う。女性も黒のスーツに長髪を後ろで一つに束ね、まるで新婚早々の未亡人のよう。齢相応の華やかさなど微塵もない。
 
いったい、この国はどうしてこのようになってしまったのか。先月まで、彼ら彼女らが過ごしていた大学のキャンパスには、様々なカジュアル・ウェアの学生が溢れていたはずだ。そこでは、皆が服装にとらわれず好きなものを着て青春を謳歌していたのではないか。月が変わればこの落差、変容を異常と思わない社会に慄然とする。
 
私が社会に出た昭和の40年代は、皆が好みの地色のスーツで通勤していた。ビジネススーツだから、明度彩度は抑えていても、背広は地の色をもっていた。黒は日常の色ではなかった。女性は会社を出れば、それぞれが個性を発揮できるファッションで通勤していた。
 
いつからこうなってしまったのだろう。平成の社会に、何かが起きていたに違いない。いったい何処の誰が、リクルートたちに黒服を強制しているのであろうか。それとも、新人たちが空気を読んだ結果であろうか?上に倣えなのか右へならえなのか。同調社会が暗黙裡に個性を否定する方向を目指し進んでいるのだろうか?黒でないと、異端として疎外されるのだろうか?
 
こうも画一化に従順で順応する若者が年々学窓から巣立っていることを、私は迂闊にも見逃していた。今や日本の若者は、服装に関する自由を放棄したのであろうか?それは誰の為か?たぶん、自分の為と言う返事を返って来るだろう。
 
服装は人にとって最も安直な個性表現の手段の一つであり、その人の人格が顕れる。個性に応じた服装をしないで、自己表現できるほど、日本人は目色・髪色に個人差がない。平凡で画一的な顔であるからこそ、日本人には、個性を服装で意識的に強調する必要がある。
 
舊い軍服を模倣したような中学・高校の制服廃絶を願っている私には、現下の社会で起きている現象は、流れを逆流させるものに見えて、その拠って来たるところを想像すると、暗澹たる思いに捉われる。

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