道々の枝折

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文章について

2019年04月16日 | 随想
文章は、名文よりも内容、イデー即ち発想が全てと言ってもよい。
文章の内容とは、即ち書き手の発想、思想を示すものだ。これは当ブログのような駄文であろうと、文芸や研究論文など、高尚な文章でも変わらない。
 
読者は常に世に敷衍している知識より、新たな発想に興味を抱く。人は新たな発想から発展した斬新な思想を求めるものである。著者の思想は、読者の思想を研ぐ砥石のようなもので、目の粗いものから細かいものまであり、読者は順々に番手を上げていくことで自分の思想を研ぐ。
一般に日本の読書家は文章の巧拙について審美的であるように思う。先に文体の方に先に目が行って、時には内容すなわち発想の独創性や斬新性への吟味と把握が後回しになるケースが多いように思う。
 
これは中国から漢文と共に伝わった作法かもしれない。我々は文章の内容よりも文体の良し悪しに過剰に反応しがちだ。読書大国日本の読み手は、文章の論理的内容よりも文体に鑑識眼を発揮して、その芸術的価値に耽溺する傾向が強い。これは漢字文化圏のひとつの特徴であろうかと思う。
 
読書大国必ずしも著作大国でないことに注意しなくてはならない。作品、出版物は多くても、国際的に評価される著作は、けっして多くない。科学論文の価値が引用の多寡できまるように、著作物の価値も、引用の数がその本の質を証明する。日本人の著作物の引用は、翻訳の少なさもあって、調べれば僅少と結果が出るだろう。
 
文芸も芸術の一翼を担っているのだから、文体は内容と同等の重要性をもち、審美眼に耐えなければならないが、それでも著作物は内容の質つまり文字で語られる思想が全てである。
 
文章は文芸ばかりではない。論文、記事、仕様書、説明書、報告書など芸術とは無縁の文書が圧倒的多数である。これらは、文章の美的な要素は無用で内容にのみ重点が置かれている。論理の構成と記事の正確さそしてわかりやすさが質を決める。
 
繰り返すが、名文とか美文は、漢字文化の社会で評価されてきたものである。著作は論理が柱であるべきはずなのに、中国の漢字文化は文字と音律に美を見出し、それを重視してきた。音律から音調へ、そして美文へと、内容と別の価値観が一人歩きすることを許す悪弊があったことは確かだ。歴史を閲し、現代にその地で起きていることを観ても、中国人には自己尊大の傾向が強いように思う。
 
そのような文化では、悪筆は重大な欠陥で、出世の妨げになる。それで、幼児の時から書を学び、達筆になるよう書道にエネルギーを費やす社会になった。その社会では、悪筆は肩身が狭く、悪筆を公にすることを避けたくなる。書体が不味いだけで、読んでもらえなくなる不安がつきまとう。
 
日本の社会は、悪筆は社会的にハンディとなることを中国に学び知っていたからこそ、子供達は幼い頃から習字に励んだ。かくて読み書き考えることから、考える面が等閑にされてきた。それが発想の貧困性に繋がった。
 
ワープロの普及は、習字を不要にした。文章は思想を伝える道具である本来の目的で用いられる。あくまでも目的は内容を伝えることにある。作者の思想を読者に正しく理解してもらうことが全てであろう。
 
中国由来の漢字文化には、書に美術性を見出すところがあり、それが漢字文化として日本に伝わった。奈良時代には、日本の能筆家で本家の唐で評価された人がでている。
 
漢字は憶えるだけでも左脳に大変な負担をかけるばかりなのに、更に文字を美しく書くこと、文章を流麗に錬ることに左脳のメモリの大部分を消費してしまう。左脳に過大な負担がかかり、同じ脳が受け持っている論理的な思考や考察が抑えられてしまう。優れた著述の災いの遠因はそこにあるのではないか。
 
西欧語には書道のごとき書体への偏執はなく、書き手はてんでに自分流の筆記体を持っている。筆跡で個人を特定することは容易だ。西欧文明は、書の上手い下手は問題ではない。同国人にも読み難い文字を書いて、恬淡としている。
 
小学校でローマ字を学び、中学校で英語アルファベットの習字を習う日本人の英字は、書体としては優等だ。それだけ、英語を読解意味を理解し意思を伝える方が疎かになっている。
 
内容より形式を重視したり、面子を重んじたりするのは、東アジア儒教圏の通弊である。著述というのは、講話と同じく、思想の発露であって、内容の乏しい名文は意味がない。
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