駅の改札口を出て、急な下り坂から脇道の石段を降ると、小さな漁港に出た。岸に平行して築かれた突堤に大小2隻の漁船が繋がれ、その他の漁船は港の奥の斜面に陸置きされている。宿はこの漁港を眼下に眺める位置に在った。
部屋に通され、先ず窓から景色を眺めた。正面に大島が霞んで見える。左手方向の海岸は滑らかに弧を描いて遠い岬に至り、その先の陸影は徐々に厚みを失って水平線に消えている。
目当ての波打ち際にある露天風呂「黒根岩風呂」へ行ってみた。開湯時刻に20分ほど早過ぎたので、管理人さんと雑談して待つことにした。
その人は此処で、入湯料の徴収と湯温を調節する仕事を13年もしていると云う。97度で湧出している源泉を、季節や天候による外気温の変化に応じて加水し、適温にコントロールしているそうだ。以前は旅館の番頭さんだったらしく、伊豆の温泉旅館・ホテルの事情に詳しかった。
そのうち入湯時刻になった。ゴロタ石を積み上げた混浴用浴槽は二つに仕切られ、そこから少し離れた女性用脱衣所の傍の小高い位置に、もうひとつ女性専用の浴槽があった。女性専用浴槽が最高所にあるのは、男性の目を気にせず入浴できる工夫だ。浴槽から渚へは一面ゴロタ石で、打ち寄せる白波がすぐ目の前に見えている。
湯に浸かってみると、熱からずぬるからず、ちょうど良い加減だった。磯浜の潮騒に包まれ、打ち寄せる波頭を指呼の間に眺めて温泉に浸るのは、初めての体験だった。浴槽には、私のほかに老若交え3人の男性が入って居た。
そこへ、長髪を後ろで束ねた若い外人が、目で先客達に会釈しながら入ってきた。我々日本人には真似のできない、親近感の籠もった目つきだった。
白人の眼は口以上にモノをいう。彼・彼女等の目遣いなら、男女が一瞬にして恋に落ちることもあり得ようし、社交・ 外交に長じていることも納得できる。表情が豊かということは長所に違いない。しばらくすると、彼の奥さんか恋人らしい日本人女性が来て浴槽に入り、彼の横に並んだ。女性の方が年長に見えた。
まもなくこの男女間に小さな諍いが始まった。外人男性が、全裸のまま風呂を出て海に入りたいと無分別なことを言い出し、 日本人女性がこれを小声でたしなめているのだが、男性はなかなか承知しない。制しかねた彼女は、海水が生活排水で汚染されているかもしれないとまで云い出した。そして唐突に、私に同意を求めてきた。
私は先刻からのこの男女のやりとりにいささか辟易していたので、得たりとばかり、この辺りの海水汚濁は尋常でないと、ひときわ厳めしい面持ちをつくって答えた。海の綺麗な伊豆には申し訳ないが、ヤンチャな外人の無茶を制止するには、潤色・誇張も已むを得ない。さしもの非常識な外人も、古武士の如き面持ちに変じた私の諌止にはたじろぎ、不承不承海に入るのを思い止まった。
ちょうどそのとき、少し離れた上段の浴槽に居た熟年の婦人グループが、賑々しく嬌声を挙げながらこちらの混浴槽に入って来た。熟年婦人たちの姦しい嬌声ほど、傍に居て苦々しいものはない。彼女らの無遠慮な好奇の目は、たちまちこの若い国際カップルを捉え、質問と応答で浴槽の中は俄かに騒がしくなった。海を観ながら、ひとり静かに露天風呂に浸かる愉しみは、見事に潰えた。
自分の入湯記念写真を撮ろうと目論んで、着替袋にデジカメと三脚を忍ばせて来たのだが、満員の混浴露天風呂でカメラを取り出すのは気が退けた。好奇心旺盛で身の程知らずな婦人連中に、盗撮などと騒がれては甚だ迷惑、記念撮影は不本意ながら諦めた。
湯からあがり宿へ戻る道すがら、暮れなずむ海原に目を遣ると、突堤の先の沖合に錨泊している漁船が一艘、マストの先をゆっくり振りながら波間を上下していた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます