「天保の改革」で悪名高い水野越前守忠邦は、唐津藩主であった23歳の頃、藩内の反対を押し切って浜松藩への国替えを望み、幕閣要路への賄賂攻勢によって浜松藩主に成ったらしい。以後は順調に幕閣の要職を歴任し、願いどおり老中首座に昇り詰めている。
忠邦は若くして肥前唐津藩の当主(当時19歳)という恵まれた地位に着いたが、幕閣の重職に就くことに殊の外執心したようだ。家臣・領民の反対や重臣の諫死までも無視し、浜松藩への転封を画策、活発な猟官運動を行なった。わがままな苦労知らずの殿様の家来たちの苦労は計り知れない。
当時幕閣の要職は、徳川家ゆかりの三河・遠江・駿河各国の城持ち大名が任用される慣わしだった。
江戸から遠い唐津藩には、長崎警護という重要任務があり、奏者番の職にあった忠邦が幕閣においてそれ以上の地位に昇ることは叶わなかった。
先年唐津に行って愕いた。玄界灘に面する難攻不落の城地。明媚な風光と優雅な天守閣。
古代から海上交通の便と海産物に恵まれ、公称6万石の実収はなんと3倍の20万石だったという。
唐津と較べて浜松は、公称石高は同じものの、城といい風光といい実収といい、もし見比べたら、当時の人々の目には大層劣って見えたことだろう。藩を挙げて殿様の暴挙に反対したのも無理はない。
唐津城天守閣
浜松への転封が叶った忠邦は、浜松藩在任の28年の間に、寺社奉行・大坂城代・京都所司代・西の丸老中と栄進、最終的には45歳で老中首座に着き、積年の願望を果たしている。
自身が国元浜松に住んだことは一時もなく、在番中は専ら江戸藩邸に住まいした。たまの上京の帰途に、自領に立ち寄る程度。藩政・領民のことなどとんと関心がなかったらしい。
現浜松城天守閣(仮構の天守閣で、水野忠邦が藩主の時代はおろか、そもそも存在していなかった説がある)
願いどおり順調に栄達して老中職に昇り詰め、「天保の改革」を断行するが施策は悉く成功せず、幕府から最終的に2万石没収の上隠居を強制され、息子の当主忠精は山形藩へ転封となった。忠邦に対する懲罰的左遷である。移封に際して、旧領浜松の領民からの債務を清算しないまま山形へ移ろうとして、一揆を招いている。
比類なく恵まれた生誕の地唐津を捨て、徳川幕閣での栄達に邁進した挙句の政治的失脚。山形転封後も江戸藩邸下屋敷に住み続けた忠邦は、どのような思いで晩年を過ごしたことだろう。生まれ故郷の唐津の風光を、想っていたのではないか?権力欲に取り憑かれた気の毒な生涯と言える。
浜松の名勝佐鳴湖での、たった一度だけの舟遊びは、おそらく記憶の片隅にも遺っていなかったかもしれない。
人にとって故郷は、かけがえのないものである。恵まれた故郷での藩主生活を捨ててまで果たした出世は、一体水野忠邦に何をもたらしたのだろう?
「身の程を知れ」と叱られたような記事でした。あまり野心を出すのはよくないということなのでしょうね。
野心は努力の素で、若いうちは結構ですが、能力が伴わないと、空回りしてしまいますね。