道々の枝折

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作左山(さくざやま)

2020年07月11日 | 歴史探索

徳川家康が築城した浜松城の西北の一隅に「作左山(さくざやま)」と呼ばれた小高地があった。
あったと言うのは、現在は浜松中部学園(小・中)の校地の中に、所在位置を推定するしかないからである。

元々、家康が城を築く前は、三方原台地上の小さなコブ(突起)に過ぎなかったのだが、城の東北側の低地から見れば標高差約30mの山(丘)に見えたのだろう。築城後、そこには兵糧蔵・煙硝蔵が置かれ、搦め手の名残口を押さえる城の要所だった。

「鬼作左」の異名をとる[本多作左衛門重次]は、徳川家中でも剛直で知られた武将だった。三方原合戦の敗北の後、家康は城の防備をより厳重にするため、この小高地に重次の屋敷を構えさせた。以来この場所は「作左曲輪」とも「作左山」とも称され、その名称は廃藩になるまで用いられた。

昔老生が通った小・中学校は浜松城址内に校地が在り、小学校(元城小)は「二の丸跡」、中学校(中部中)は現在の中部学園内の「作左曲輪跡」に校舎があった。小・中の校舎は、本丸を挟んで対置していた。

中学の校歌の歌詞に「作左山」の語があったが、何処にそんな山があるのやら?いつも釈然としない思いで歌っていた。作左曲輪造成の時か、旧中部中学校地造成の際に、台地のコブは削平され、平坦地になっていたのかもしれない。

重次の一人息子の[仙千代]が長じて[本多成重]を名乗る。成重は父の働きの恩恵により、越前丸岡藩(福井県坂井市)の初代藩主となった。

平成の合併前の丸岡町が始めた「日本一短い手紙」のキャンペーンは、重次が「長篠の合戦」に従軍中、留守宅の妻に宛てた手紙「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」に因んだものとか、大いに町名を広めるのに寄与した。役場に歴史好きの傑れ者がいたに違いない。後の時代の「ふなっしー」「くまモン」「家康くん」などのご当地キャラによる町興しとは、ひと味もふた味もセンスが違う。

家康にはもう一人、本多姓を名乗る譜代の家臣がいた。勇猛果敢で世に知られた[本多平八郎忠勝]である。
その無双の武勇は、干戈を交えた織田・武田・豊臣の武将たちからも賞賛された。
小牧・長久手の戦いで忠勝の剛勇ぶりを見た[豊臣秀吉]も、後々まで激賞している。
豪傑の面が強調されているが、知略の人でもあり、「関ヶ原の戦い」の後に桑名藩の初代藩主になっている。

[鬼作左]の異名をとった[本多作左衛門重次]は、[平八郎忠勝]と違って秀吉に嫌われた。重次が天下人の秀吉を徹底して嫌い抜いたからである。ことごとく、秀吉の気に触ることを繰り返した。家康も困ったことだろう。

案の定秀吉は、「小田原征伐」の後家康に命じ、重次を上総国古井戸に蟄居させている。北条を滅ぼすまでは、流石の秀吉も忍耐を重ねていたのだろう。ひとり息子の成重が大名に成った重次本人にとっては痛くも痒くもなく、蟄居は何ら不名誉ではなかった。むしろ徳川家臣団の信頼は一層篤くなったことだろう。
秀吉に対する所業は確信犯的であり、徳川家中の将士・領民の意思感情を代弁するものだったのだから・・・

この二人の武辺者、タイプは異なるが、草創期徳川氏の三河家臣団に共通する気概が窺える。気骨というか反骨というか。家康が今川家の人質であった頃に家臣や領民が味わった苦渋は、秀吉が天下をとった後の徳川家臣団や領民にも引き継がれていたのだろう。
今日のスマートで変わり身の迅い日本人には、殆ど顧みられることのない徳義を保っていたようだ。



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