on one's own accountという英語が
ある。直訳すれば自己の勘定、すなわち「自前で」の謂である。
集団に依拠することを潔しとしない
アングロ族・サクソン族(ゲルマン民族)の血を引く英語圏の人々のアイデンティティーは、あくまでindividualであって、帰属する組織・団体ではないらしい。
彼らには、勤務先を「ウチの会社」と謂う発想と意識はないようだ。会社と個人は別のもの、個人は本質的に団体に服属したり一体化できるものではないと、怜悧に分析している。団体に所属していても、自前で生きることに重きをおいている。それが彼らの心性というものだろう。
彼らがindividualism(個人主義)を重視するのは、自前で生きることこそ、人に相応しい生き方であると認識していることの表れだろう。
人は〈他者の勘定〉で生きる者と、〈自己の勘定〉で生きる者とに分けられる。そのどちらを採るかは、個人の問題である。組織・団体に所属していようといまいと、個人の責任と勘定で生きているかどうかが問われる。
民主主義は、創造神(キリスト教)への絶対的な信仰を根底にもち、かつ個人主義の心性(精神性)をもった人々によって生み出され信奉されているイデオロギーであって、個人よりも集団や組織に重きをおく民族には根付かない。democracyの基底には、確固とした〈individualism〉と〈キリスト教の精神〉があることに、私たちは早く気付くべきだった。〈擬制の民主主義〉を続けていても、民主国家にはならない。イデオロギーは精神的風土の所産であって、異質な風土には根付かない。
戦後70年経っても、形はともかく、内実においていっこうに民主国家にならないのは、制度や教育の問題ではなく、私たちが祖先から受け継いでいる心性に原因があるようだ。こればかりはどうしようもない。心性は外形的な民族的特徴同様変えられない。この心性あっての日本人である。
神と直接対峙しない個人主義は偽物であり、個人主義を基盤としない民主主義はまやかしである。民主主義の前提には、個人主義がなくてはならない。だが、神を欠いた個人主義は、利己主義でしかない。残念ながら、我々が民主主義を自分達のものとするのは、相当に難度が高いことのようだ。軽々に「民主主義に対する冒涜」とか口にできない。未だ民主主義を自分のものにしていない、民主主義前夜の状態にあるのだから・・・
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