日本は海岸線の長さ100m以上の島が6852、そのうち有人島は430余りもある。押しも押されぬ島嶼国だ。
我々が認識する島という概念は、多分に感覚的なものがあって、島の面積が広くなるほどそれを意識しなくなる。九州、四国、本州、北海道は明らかに島であるが、ほとんどの国民がそのような意識をもっていない。私たちが頭に浮かべる島は、離島のようなところだろう。
今仮に島の最高所に登ってみて、四囲の海がはっきり見渡せる程度の広さを島と考えて、果たして自分はこれまでに幾つの島に渡ったかを考えてみた。もちろん、橋で本土と繋がっている島は島には含めない。その結果、同じ島を重ねて訪れたことを含め10指にも満たない。周りの人たちに聞いてみても、磯釣りとかダイビングをする人は別として、似たか寄ったかの体験数だった。島嶼国の住人としていささか寂しい現実だ。山国に生まれて山に登らないようなものである。
理由を考えてみると、本土の人には、島そのものの自然とそこに住む人々への関心が薄いことがある。本土と言う言葉が示すとおり、島は本土から外れた僻遠の属地である。すくなくとも私たちの間においては、その認識で一致している。それは僻地であり異郷なのだ。景観ポイントや特産物でもないかぎり、人は島を目指さない。日本百名山を著した深田久弥は居たが、日本百名島を著す人がいない。いかに島が人々の関心を呼ばないかを示している。
地球上のそれぞれの民族には、それが成立したときに居住していた生活空間すなわち原郷とでもいうべきものがある。そこの自然景観はその民族にとっての原風景として時代を経ても失われない。それらの原郷は、深い森であり、荒涼とした砂漠であり、開豁な平野であり、峨々たる山岳であり、絶海の孤島である。ドイツ人は森を見ると矢も盾もたまらず森の中に入って行きたくなるらしい。ゲルマンと呼ばれた時代の生活の場の森に・・・
われわれは、森を前にしても、決してそのような衝動に駆られることはない。また、海上の島をみて、無性にその島に渡ってみたくはならない。まして砂漠や山岳などへ足を踏み入れたい気持ちにはならない。やはり、平野に居ることが一番落ち着く。九州の南部や四国南部を除く地域の人々の原郷は、平野であったと思ってまず間違いないだろう。
そこから浮かび上がってくるのは、日本人の大半の祖先にあたる人々(縄文時代以前にこの列島に渡ってきた人々)の居住地は、島嶼ではなかったということだろう。おそらく、中国大陸の海縁部の、大河のデルタ地帯周辺に住んでいた人々が、何らかの事情で居住地を捨てざるをえない必要が生じ、島づたいに幾世代もかけて、より良い生活の場を求めこの列島に展開したのではないか。
彼らは沖積平野の民で、網の目のようなデルタを往来し、海と川の漁労に慣れ長じていた。また稲の栽培技術にも長けていた。彼らはより広い可耕地を求め、数代数十代にわたり移住をくりかえし、九州から四国・本州・北海道へと展開した。我々のルーツは大河のデルタを本拠としていたと考えても無理はないだろう。
一昨年の秋、〈伊良湖崎〉から〈神島〉に初めて渡ってみた。古代には神の訪れる島として志摩の国一円の人々に崇められた伊勢湾口に浮かぶ孤島である。
この島へは、これまで鳥羽市の佐田港からでないと渡れないものと思いこんでいた。知友が伊良湖崎-神島港間に就航している船便があることを教えてくれたので、一緒に神島を訪ねてみた。伊良湖水道を横断し、15分で神島港に着いた。
周囲4キロ足らずのこの島は、海抜171mを頂に、山脚がそのまま海に落ち込み、西南部の一部を除いて全島のほとんどが傾斜地である。 集落は港のある島の北側の高台斜面に密集している。その様な地勢だから、桟橋を通り抜け海岸に沿う道路を横切ると、歩行路はすぐ上り坂になる。小路に沿って人家が軒を重ねるように建ち並び、三島由紀夫が「潮騒」執筆のおりに寄宿した家も現存している。
登るにしたがい道の勾配は急になり八柱神社に至る。その先は渥美半島の側の展望が開けた巻き道が、燈台から旧監的哨まで続く。ゆっくり歩いて2時間ほどで島を周回した。
港の食堂「潮波(さっぱ)」で食べたタコ飯・サンマのアラメ巻き・エイの和え物・ワカメの茎煮などのこの島ならではの味を堪能した。たった4時間の滞在時間だったが、山行きと変わらぬ充足感を味わうことができた。
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