人が現在の生活を安心して営めるのは、安定した不変の過去があるからで、その過去を想起させたり確かめるためには、縁の品が欠かせない。物品であれ書類であれ、縁の品々を捨てることは、それらが思い出させてくれる過去のある時の状況と訣別することである。
過去は列車の窓から見る景色のように、刻一刻と滑らかに後ろに遠去ってゆく。人が車窓からの眺めに惹かれるのは、単に広々とした景観が目を和ませるだけでなく、日常では無自覚のままに過ぎ行く時の流れを、視覚的にシミュレーションできるからだろう。
私は自分を、過去に執着しない気性だと思っていた。しかし、今回の体験で、どれほど過去に依存していたかを知り、いささか驚いている。勿論、回顧に値する過去に対してである。
未来は漠然として見えない。現実は動いていて不安定だ。となると、過去ほど安定して揺るぎなく、人間のアイデンティティーを支えてくれているものはない。人が年を経るほど保守的になるのは、過去への依存心が加齢よって逓増するからだろう。
革新的であることをイデオロギーにし、革命を口にしてきた人達でも、老いれば変化を好まなくなり、革新を願った過去を懐かしむ。過去は不変で安定している。過去を失うことは、不安定な世界に身を置くことである。
人は、死が身近になればなるほど、懐旧や追憶に耽る時間が増え、憶い出の花園に遊ぶ時が多くなる。市に臨み、朦朧とした視野に映るのは、遠い昔に見た懐かしい光景だろう。
芭蕉は今際の際に、「旅に病んで 夢は枯れ野を 駆けめぐる」と詠んだ。予定していた先の枯野を踏破する夢を見て詠んだ句だと解説されている。病んで再起不能を悟った芭蕉が、見知らぬ枯れ野を夢見たとは考え難い。やはり、過去の旅路の随所で見た冬枯れの野の光景が、夢に現れていたと考えたい。
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