道々の枝折

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壬申の乱(その2)

2019年03月10日 | 歴史探索

その2

.吉野脱出

672624日、大海人皇子は倭古京(飛鳥)に舎人を派遣、留守司の高坂王に駅鈴(官馬の使用許可証)の発給を求めるが断られた。それを知ると、大海人は直ちに【大津京】に舎人を派遣し、高市皇子と大津皇子に決起を報せ脱出を促し、伊賀・伊勢などの通過地点にも舎人を先行させた。彼らは【美濃和蹔】(わざみ、現在の関ヶ原)の本営までの経路確保と在地兵力を糾合する使命を帯びていた。

その日の夜、大海人皇子は妃の鸕野讚良(うののさらら)皇女と幼い草壁皇子・忍壁皇子を伴い、舎人20人と侍女10人を引き連れ、吉野を徒歩で脱出した。菟田(うだ)で50頭の駄馬と輿を手に入れる。

近江朝廷には大海人皇子の謀反への警戒心が無く、吉野討伐の意図などまるでなかった。それは大海人が吉野に隠棲して後もそのまま大津に居た高市皇子と大津皇子のふたりを、拘束または監視すらしていなかったことでわかる。

大海人は、大津宮に2人の皇子を残すことで、叛意のないことを近江朝廷にアピールしていた。

またもし近江朝廷に大海人皇子を危険視して討伐する意志があったなら、書紀が謂うように万余の大軍をわざわざ美濃・尾張で準備せずとも、ごく少数の精兵による奇襲攻撃で目的を果たすことは容易だったろう。

624日の夜になって、近江朝廷はようやく大海人の反乱を知り、群臣会議を催した。東国・大倭・筑紫・吉備に兵力動員の使者を派遣することを決定する。畿内・近江での動員兵力に不安があったのだろう。

625日の朝、大海人皇子の一行は、近江を脱出してきた高市皇子の一行と伊賀の積殖山口(つむえやまぐち)で合流し、それまでに集まった兵500鈴鹿道を塞いだ。続いて26日、大津皇子が三重で大海人一行に合流する。

627日、近江朝廷は初めて主力軍を大津宮から不破に向け進発させた。近江路を進む官軍主力の行軍は遅く、前線の犬上川南岸に全軍が集結したのは3日後の629だった。行軍経由地の豪族たちに参軍を呼びかけながらの遅い行軍だったらしい。それは、息長氏や羽田氏の対応からも想像できる。機動力ある部隊だったら1日行程である。

同日、村国男依が美濃の兵3000を動員し、不破道の封鎖が完了した旨を大海人皇子のもとに報告した。ただちに大海人は高市皇子を不破に先行させるとともに、更なる兵力動員のため、東海道・東山道へも舎人を派遣する。同日は桑名の【評家】(こほりのみやけ)に宿営し、昼夜を別たぬ強行軍の疲労を癒した。

大海人の吉野脱出行は、敵中突破の逃避行でなく、水際だって迅速果敢な作戦行動そのもの、と見るのが適切だろう。

.本営に於ける検軍と軍団編成

627日に高市皇子からの不破進出の要請に応じた大海人皇子は、【野上行宮】(のがみのあんぐう=仮の宮)に入った。

予定通り尾張の国宰(くにのみこともち)小子部鉏鉤(ちいさこべのさいち)が率いる官軍20,000を接収し、近江朝廷を討伐する軍2万数千(誇張があると見られている)陣容はここに調った。6月28日、大海人は【和蹔】(わざみ、今の関ヶ原)において全軍を視察する。

629日、大海人は高市に全権を委任し、全軍の総指揮を命じた。高市は、軍を大倭方面、近江路方面・伊賀方面の3つの方面軍に分けた。

この日までには、数万(誇張があり信頼性は低い)の官軍が、犬上川南岸に集結していたと思われる。

.官軍主力の内紛と玉倉部邑奇襲

71日、大友軍の精鋭部隊が、現在の米原・彦根を迂回して伊吹山の山麓を周り、玉倉部邑〈現不破郡関ヶ原町玉)を奇襲するが、大海人軍の出雲狛に撃退される。72日、大海人軍の大倭方面軍と近江路方面軍が進発する。

この日、犬上川南岸に布陣する官軍に内訌が起こり、大海人と親交のあった山部王が殺害される。加害者は副将格の御史大夫、蘇我臣果安(そがのおみはたやす)と同じく御史大夫・巨勢臣人(こせのおみひと)のふたりだった。想うに官軍を総帥する山部王に、利敵行為等の原因があったのだろう。事実は闇だが、蘇我果安が数日後に大津へ立ち戻り、大友に事態を報告の上自害しているから、余程許せないことがあったのだろう。

日本書紀には、これに先立つ大津皇子の近江脱出行のときの鈴鹿での出来事で、山部王の大海人皇子への内通を匂わせる記事がある。

官軍の羽田矢国・大人父子は、事件のあったその夜に陣営を去り、大海人軍に投降する。大海人は羽田父子に、玉倉部邑で大友軍を撃退した出雲狛と共に湖北を周り湖西を辿って大津宮を攻撃する任務を与えた。

.大倭攻防戦

72日、【和蹔】(わざみ)に集結していた大海人軍が進発した。

大倭方面へは紀阿閉麻呂、近江路方面は村国男依・書根摩呂、莿萩野(たらの)へ多品治、倉歴道(くらふどう)には田中足麻呂を配置する。

この日大倭では、大海人軍の大伴吹負(おおとものふけい)が、河内方面から官軍が倭古京目指して3つの経路で進撃していることを知る。吹負は坂本財ほか2名の将を現地に配備する。坂本財は大友軍の籠る高安城を攻略し成功した。

73日、大海人軍の坂本財は官軍の壱岐韓国と河内の衛我河(えががわ)で戦い敗れる。

大伴吹負は乃楽山に進出し布陣するが、兵を割き倭古京の守備も堅める。

74日、大友軍の大野果安が大伴吹負を破る。大野果安は勢いに乗って、倭古京(飛鳥)に迫るも、大海人軍に伏兵があると恐れて撤退した。

大友軍の壱岐韓国は河内の国司、来目塩籠(くめのしおこ)の離反により、倭古京(飛鳥)攻撃を延期する。

同日敗走中の大伴吹負は、墨坂で大海人の増援部隊と合流し、金綱井に進駐した。

75日、大友軍が総攻撃を開始。河内から大倭に攻め入り、大海人軍は全面撤退を余儀なくされた。

大友軍の田辺小隅が倉歴(くらふ)を夜襲し、大海人軍の田中足麻呂を破る。

76日、大友軍の田辺小隅が莿萩野(たらの)を攻撃するも、大海人軍の多品治(おおののほむち)に敗れる。

77日、大伴吹負が壱岐韓国を当麻(たいま)の葦池で破る。

紀阿閉足麻呂率いる大海人軍の大倭方面軍が倭古京に到着する。

78日、大倭で決戦があり、三輪高市麻呂らが、大友軍を撃破する。更に中つ道で大伴吹負と交戦中の大友軍の廬井鯨(いおいのくじら)の背後を衝き、大海人軍が大勝利、大倭の大友軍を駆逐した。

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