試験操業区域は、汚染水の海への流出が続く福島第一原発に最も近くて約20km、最も遠くて約100km、沿岸部もある。漁獲物の全数検査など不可能だろうし、抜き取ったサンプルの検査による統計的な判定は母集団の安全性であって、実際に消費者が口にする個体の安全性を保証するものとはならない。
今朝の新聞報道に拠れば、米国原子力規制委員会(NRC)の前委員長が「汚染地下水は制御不能」と述べたという。そして、問題をここまで悪化させたことに驚きを隠さず、当事者の対応を批判したそうだ。
海外の原子力専門家が驚く現状に、沈黙する国内の専門家やメディア。この対照は何処から来るのだろう。悲惨な戦争に突入した戦前の社会情勢を思わせるものがある。
なぜ私たちは歴史的にこうしたことを繰り返すのか?原因を政治や制度の所為にはできない。政治も制度も、私たち国民の心性に依拠し、心性が集約され、心性を反映しているのだから・・・。事実を明白にせず、歪曲したり、潤色したり、時には隠蔽したりするのも、私たちの心性がそうさせるのだ。
形は民主制度であっても、日本のそれがキリスト教に根ざす欧米の民主制度と質を異にするのは避けられない。心性が違うから、宗教が違い神が異なり、信ずるもの、依拠するものが違う。民主主義は自分たちが生んだものでなく、よそから学んだ借り物のイデオロギーに過ぎない。これも、数ある和魂洋才のひとつでしかない。
この国の歴史を繙けば、民主主義に馴染まない民族性であることは歴然としている。民主主義の化粧をしていても、強権に縋る素顔が様々な場面で顕れる理由はそこにあるのだろう。有史以来、一貫して権力は分散することなく集中してきた。集団がひとつに収斂することでしか存在を意識できない、事大主義の民族なのだ。
改めて私たちは、自分たちの心奥に潜む心性の本質を探り、それに目を背けることなくその弊害を克服しなければならない。先ず「己を知る」ことが、混迷の現代を生きる私たちの、最大の課題である。
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