ゴルフタイムスの世界   Eagle Eye

ゴルフタイムス編集の古賀のイーグルアイは、焦点を外さないのが自慢です。面白くて、実践的で参考になる記事を提供したい。

決意とは、今が、勝負か   この一瞬に命を燃やす

2018-02-14 | 日本の未来

昨日は、戻ってこない。

明日は、生きているか、わからない。

今日、この一瞬に、命を火を燃やす(剛大

            マリアテレザの至言に学ぶ。

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正しい歴史認識  南京事件に検証 48人の証言

2018-02-14 | 日本時事新聞社

「南京事件」―日本人48人の証言」小学館文庫)

阿羅健一著

その7―第二章 軍人の見た南京 1、陸軍(3)

企画院事務官・岡田芳政

参謀本部庶務課長・諫山春樹大佐

陸軍省軍務局軍事課編成版・大槻少佐

野砲兵第22連隊長・三国直福大佐

 セントジョセフ国際大学

国際社会工学部 主任教授

古賀 剛大 様

 

 今回は第2章「軍人の見た南京」のうちの

1、陸軍(3) 上記4名の証言です。

 

 岡田氏は陸軍省軍務課付で東京大学に派遣されていましたが、支那事変が起きたために勉強は打ち切り、企画院に出向しました。中国経済開発の研究立案担当。南京陥落直後の12月24日に上海から南京に視察に入りました。先輩の案内で市内を回り、夜遅くまで話し込んだそうです。虐殺などという話は全く出て来なかったといいます。市内では、中国人が露店を2、3開いているのをみたそうで、街は平静そのものだったそうです。安全区の門番の中国人は、岡田氏が以前南京に滞在していたときの顔見知りで、ニコニコして迎えてくれたといいます。戦後虐殺事件のことを聞いてびっくりしたそうです。要するに日本は宣伝戦に負けたのだ、と強調しております。

 軍中央から上海派遣軍上陸後度々視察のための派遣がありましたが、参謀本部の庶務課長であった諫早氏も派遣された一人でした。軍規の乱れがあったのではないか,そのために度々の派遣があったのではないかと、「南京事件があった」という後追いで言われることがあります。諫早氏の証言はこれをことごとく否定しています。第16師団長の中島今朝吾中将の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」は「武器を取り上げて釈放せよ」という意味でしょうと述べています。

 大槻氏は陸軍省軍事課員として12年の暮に南京に行き、情報収集を行い、また翌年には中支那派遣軍参謀として南京に行っていますが、虐殺だとか、そんなことが話題になったことは一度もなかったと言っています。全くのウソですといいます。

 三国氏は第16師団野砲兵22連隊長として、昭和13年1月に南京に入っています。病気のため南京入が遅れたのですが、部下、そして師団司令部か戦闘のことなど色々話を聞いたが、「事件」などということはまったく聞いていないそうです。その後南京特務機関長となって、南京にできた中国人の維新政府と毎日接触、交渉する立場にありました。行政院長の梁鴻志とも度々会っていたそうですが、南京虐殺だとかそんな話が出たことはまったくなかったと言っています。

 

日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/48-7.pdf

  英訳文:http://www.sdh-fact.com/CL/Ara-Nanjing-7.pdf

 

海外には、下記の通り英文で発信しました。

 

平成30年2月13日「史実を世界に発信する会」会長代行 茂木弘道拝

http://hassin.org

 

The Nanjing Incident: Japanese Eyewitness Accounts

-Testimony from 48 Japanese Who Were There-

By Ara Ken’ichi

No. 7: Chapter 2  Nanjing, as Observed by Japanese Soldiers

1. The Army, 25)28)

 

   We present No. 6 in this series, which contains Chapter 2: Nanjing, as Observed by Japanese Soldiers, 1. The Army, 25) – 28).

   Mr. Okada, as a staff member of the Military Affairs Bureau of the Ministry of the Army, was sent to Tokyo University to study economics. But shortly after he entered University, the China Incident broke out. Therefore, he had to terminate his studies at Tokyo University and was transferred to the Cabinet Planning Board for research and planning for Chinese economic development. On December 24, 1937, he arrived at Nanjing for inspection. He drove around Nanjing with his senior supervisor, Major Sakata, who was Head of the Special Service Agency. The city was rather calm and he saw that Chinese civilians opened installment shops for business. He neither saw dead bodies nor heard of a “massacre”.At the entrance of the refugee zone, he was received by a Chinese with smile, who he knew when he was in Nanjing. He concludes that Japan lost the propaganda war--that’s what the Nanjing Incident was all about.

   Mr. Otsuki visited Nanjing at the end of December, 1937 as a staff member of the Military Affairs Bureau to grasp the situation in Nanjing. The following year he was in Nanjing as a staff officer of the Central China Expeditionary Army. He says a story of a “massacre” was never raised among staff and other people he met. He concludes that the “massacre” is a pure lie.

   Mr. Mikuni entered Nanjing in January 1937, as Commander of the 22nd Field Artillery Regiment. Because of illness, he entered Nanjing after the initial occupation. He collected information from his subordinates and had discussions with Division Headquarters personnel. He never heard of a “massacre” then. He was later assigned to Head of Special Service Agency in Nanjing. He was responsible for making contact with persons of the Reformed Government of the Republic of China. He met frequently with Premier Liang Hongzhi, but he never heard of the Incident from him.       

 

  URL:http://www.sdh-fact.com/book-article/1126/

PDF:http://www.sdh-fact.com/CL/Ara-Nanjing-7.pdf

 

Questions are welcome.

 

MOTEKI Hiromichi, Acting Chairman

for KASE Hideaki, Chairman

Society for the Dissemination of Historical Fact

Phone: +81-3-3519-4366

Fax: +81-3-3519-4367

Email moteki@sdh-fact.com

URL http://www.sdh-fact.com

Note: Japanese names are rendered surname first in accordance with Japanese custom.

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US Tour AT&T Pebble Beach Pro-Am 優勝は、テッドポーターJr 6年ぶりの美酒

2018-02-12 | 危うい日本のゴルフの世界

何と、6年ぶりの優勝

US Tour AT&T Pebble Beach Pro-Am

 Ted Potter, Jr. won the AT&T Pebble Beach Pro-Am for his second career PGA Tour title. Here's how the purse was paid out on the Monterey Peninsula.(Golf Channel )

体の故障でゴルフの地獄を見てきたT.ポーターJrは、下部ツアー、ウエッブ.コムツアーから這いあがって、念願のぺブルビーチでプレーの好機を得た。6年ぶりに勝利、2000日を超える葛藤の日々を過ごした選手である。強打者のDJ かそれとも今調子を上げてきたJD かで記者連は興味津々でツアーを見ていた。フィルミケルソンも、PBコースは、得意とするところ、調子もよく69,65、で二日間を終了していた。C.リーベもゴルフフィングが、距離なくても,安定第一のゴルフで、上位に顔を出す常連となっていた。記者連は、まず、テッドポーターJrが最終日、DJの追い上げで崩れると思っていたが、なんと、物おじしない堂々としたゴルフで、DJを寄せつけなかった。Jデイは、一昨年の強さを、披露し始めた。もちろん、マスターズへの用意を怠る様子はない。2個目のメジャーにフォーカスして頼もしい。ジミーオーカーの復活も面白い。ファイナルで67のスコアで8位タイにつけた。

Photo;Golf Channel/PGA tour /Pebble Beach

今大会を裏から見ると、ゴルフはあきらめてはならないゲームで、体さえ丈夫ならば、チャンスは必ず来るという摂理を知る。リーベ―も勝てば10振り、ウッドランドが3振りに優勝というWaste Management の試合であった。だから、3年、6年、10年でも、夢は叶うというスポーツの真髄がゴルフにはある。だから、あきらめる必要もなければ、あきらめては、夢は実現できないのだ。

のだ。タイガーが、檜舞台に戻ってくる今年は、もちろんターゲットは、勝利であろう。

 

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US Tour AT&T Pebble Beach Pro-Am

2018-02-09 | 危うい日本のゴルフの世界

US Tour AT&T Pebble Beach Pro-Am Begins Today

17番で確かなショットのJordan Spieth (photo;Golf Channel)

最盛のゲームへ上り詰めつるUSツアー、いよいよ、ぺブルビーチの舞台である。ジェイソンデイとマクロイの

舞台へカムバックで俄然、ツアーに深みと面白さが増してきた。今日は、先週ウッドランドにプレーオフで敗れたリーベがトップを行く。

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日本の知性、西部邁さんと伊佐千尋さんの旅たちに、想いを馳せる 2・8

2018-02-09 | 日本の未来

現代日本の最高の知性、西部邁さんが、旅立たれた。氏は自分よりも4つも年齢が若いのに、ただ残念という言葉ではだけでは表現ができないほど大事な人だ。東大時代に左翼的思考で、日本の底辺の政治経済をアメリカ依存でいいのか、日本の未来は、と危惧されて、学生運動を展開された。その後、日本の左翼的思想に幻滅を感じて、国家国民の保守陣営の総体理論を展開された真の闘士であったと記者は右でも常に、尊敬の念を抱いてきた。言葉の存在を顕著に表現でいなくなった時が、自分の存在価値を否定するときだと決めておられた様子で、心なしか心配していた。

江藤淳の自分の存在を消すときに、形骸化したおのれは価値はないという結実に、人間の生き方に疑問を挟む余地はなかったに、似て厳粛な気概が胸をよぎる。西部邁さんには、80歳前2年の余生があったので、もう少し、他類を見ない言論を発して未来につなげてほしかった。合掌 享年 78歳

伊佐千尋さんが亡くなった。力作の「逆転」で大宅壮一ノンフィクション賞に上り詰めたゴルフ好きな好人物である。彼は、言論人新聞社、日本時事新聞社の執筆同人の優れた論客であった。仲間の一人として、いろいろ教授された功績は、執筆同人の宝である。合掌 享年 88歳

知性を失うのは、体から血液が抜けるようだ。存在価値だけで、世の中の動静が解読できるからだ。日本は、もっと、知性を大事にする習慣をつけるべきであり、政治家や経済人だけを保存する誤差は、避けるべきである。実情の総括をできるのは、知性が醸し出す洗浄で、政治家や経済人ではない。国民は、判断を誤ってはならないのだ。

                言論人新聞社、日本時事新聞社 執筆同人 一同

                       デスク       古賀剛大

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