お前さんは何か書いてばかりだな!と自分で突っ込みたくなるのですが、本当に最近はよく書いています。
社会人になってからというもの、鉛筆を持つ機会は皆無に近かったです。ボールペンかせめてシャープペン。クレヨンとかは見ることもなかったくらいのレベルでした。
子どもが生まれても家にクレヨンはあるけれど、くらいのレベルでした。
ある時、娘がまだ幼稚園生の頃、私が倒れたりしていろいろ迷惑をかけたあとにですね、あるママさんからぬり絵をいただきました。
迷惑をかけたというのも、もうのっぴきならない感じで、今でも
「脈がない!」
と叫んだママさんの声が耳に残っています。
私が道で倒れ込んだ時、まだ意識がある時に、横になってねとか、頭にスカーフとか手袋とか置いてくれたりして介抱してくれました。その折に私の脈を取ろうとして取れない!と焦って叫んだ声です。
おそらく低血圧になって脈がうまく取れなかったんだと思います。主人もよく焦って脈がないぞと言っていることがあったので、それはそういう時だと分かりました。要するに薬を切らしてしまったと。
でも、声にならないのです。目だけひん剥いているような感じで。
幼稚園の近くで倒れたので、先生方も含めてママさんたちにこの重い体をタンカで運んでもらいながら、園児や近所の子どもたちが怪訝そうな顔でこちらの様子を見ていて、こりゃ野次馬ワイドだなと思いました。
こちらは何度も何度も経験していることなので多少呑気な部分もありましたけれども、迷惑をかけてしまっているということはかなりショックで申し訳ない思いでいっぱいでした。そして何より、こんな体たらくの姿をいろんな子ども達に見せてしまったということ、そして娘の気持ちがすごく気になりました。
その後コロナ禍で、集まったり遊んだりということができなくなった頃、そのママさんから塗り絵をいただきました。
おうちでも楽しめるよ、親子でもはまるよー、とのことで、ありがたく頂戴しました。
が!
開始早々に、私、ぬり絵のノウハウない!と気づくのです。
それでも取り組んでみましたが、草花を塗る場合、ほんとにベターっと葉っぱは緑、花はその花の好きな色、みたいな。
ベターっと塗ろうにも、それはそれでうまくいかず、線がはっきり見えるし、濃淡が出てしまったりして、何だかもう全体的に色が薄い弱々しい残念なぬり絵なのです。
奥が深いぞ、ぬり絵!子どものものと侮るなかれ。枠をはみ出さなくて褒められるのは5歳までだ!
全く上達しないままでしたが、時々色鉛筆を持っては塗っていました。
その後、少しコロナが落ち着いた頃に本屋さんの企画コーナーで美術を特集していました。
ぬり絵の本が通りすがりに見えまして、娘と子どもの本を見に来たのに、吸い寄せられるように近寄りまして。
それでペラペラとめくっただけで買ってみよう!とふたりで意気投合しまして。むしろそれだけを購入してきました。
家でぬり絵に改めて挑戦してみます。
もちろん見本のようにはいきませんが、目指すはそんな高みではなくて、ちょっと良いぬり絵。そして手指の運動です。
何度も何度も塗り重ねること
消しゴムを効果的に使うこと
重ねる色も思ったようなものではなくて、例えば赤い色を出すにしても茶色やオレンジ、黄色なども使ったりすること
力加減は塗りたい絵の題材によって決めること
などなど、私には新鮮な内容が描き連ねてありました。
そして塗り絵が苦手だった娘も、ほうほうと私と一緒に塗っていくと少し上手くなりまして、ぬり絵=嫌いという産物ではなくなったようです。ただ、やっぱり大変ではあるらしく、今でも自由にかけるお絵描きの方が好きだなあとは言っていますけれども 笑
友人の思いやりと私のリハビリから始まったぬり絵ですが、ペン習字とはまた少し違ったリハビリで、今でも毎日ではありませんが続いているリハビリのひとつです。
もう東日本大震災から10年なんですね。
驚くばかりです。
私は病んでいた期間、5年くらいは記憶もかなり薄いですので、本当にあっという間の10年という感じがします。
天災ですから、致し方ない、恨みきれない部分があると思います。
悔やみきれないし、やり場のない思いはどこに置けばいいのか。被災された方々の思いを考えると、本当に心が傷みますし、自分の無力さを痛感するのみです。
ただ、個人的に思うのは、天災は仕方がないもの、今後に向けて対策を考えようなどと少しは前を向くことができる気がするのですが、人災はどうしてもそうできません。
地震や津波は、対策という意味では少し足りなかった部分があるのかもしれませんが、この地震をまた糧にしていこうと、犠牲になった方々や今もなお辛い思いをされている方に、少しは前向きな思いを馳せることができます。
しかし原発事故は防げたものだと思えてならないのです。
しかも、処理についても今もなお、議論が終わらない。
というか、議論すら放棄されてしまっているのではないでしょうか。
くさいものに蓋をするのは日本人の得意とするところなのかもしれませんが、それではいけません。
声をあげることこそ勇気のいることで、議論をして喧嘩をすることこそ体力のいることで、決して無用な作業ではない、こういうことをしようとしている人を馬鹿にしたり、村八分にして、叩き潰してはいけません、と私は思うのです。
人災は絶対に防げます。
私は病気になってから、病気になったこと以外にもいろんな人災を目の当たりにするたび、なぜ私たちは同じ時代を生きる同士ではなく、敵対してしまうのだろうと、疑問でなりませんでした。
こういう争いがやまないことに、そしてこういう悪い心の方が「合理的」という理由で世の中に勝ち残ってしまうことは、とにかく辛いことでした。今もずっとずっと悩んでいます。
優しい心をみんなが持てるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。
私も悪いこともいっぱい考えますし、人間の本能なんだと思いますけれども
でも、人のことを傷つけてまで得られる利益や幸せなんて、なんの価値があるのでしょうか。
確かに私は豚や鶏や魚や、生き物を殺して食べているし、皆さんの血税を注いでもらって生き延びることができています。
誰かのことを傷つけながら生きてきました。無意識ではありますが、きっと今も、誰かを傷つけているのだと思います。
私自身はそんな風に罪深く、助けてもらいながら生きています。
それでも辛いし、痛いし、泣かない日はありませんけれども、感謝の心も常にあるつもりです。
私みたいな人をもうひとり産みたくない、そういう気持ちで行動もしています。
でも、この幸せな暮らしは、誰かが泣いているならなんの意味があるのでしょうか。
みんなで幸せになりたいです。子どもたちに幸せな未来を、約束したいです。
みんなで笑える世の中になるにはどうしたらいいか、考える1日にしながら、追悼の日を過ごしたいと思います。
病気の母親の子どもというのは、いろんな影響を受けやすい、そのひとつに母親の指摘を受けてしまうということがあります。
私に限った話ではありません。
(入院している場合)何で家にいないの?
何でお母さんは杖をついているの?
何でお母さんが来ないの?
いろんな疑問は、決して悪意があるものばかりではもちろんありません。子どもでなくても知りたいと思うことは往々にしてあるはずです。
私自身、お母さんが病気で、というお子さんから話を聞くときはものすごくドキドキしながら聞きましたし、実際に病気の人だとしても話を聞くことにびくつきながら口火を切ったことは何度もあります。
大人になるとどこまで聞いていいものかわからない、逆に上記のことは聞いてみたいことではありながらも、相手を傷つけてしまうかもしれないことだとわかっているから、大人はなかなかしない質問なのだと思います。
しかし、聞かれる側になってみると、こうしたことを聞かれて嫌だなと思ったことはありません。
悪意をもって指摘されたり、興味の方向が違うところにあるなと思うときはもちろん不快になるのでしょうが、純粋に聞かれることで何か不満に思うことはありませんでした。むしろ嬉しいくらいでした。
子どもの世界でもそうした疑問があるらしくて、娘もそうした質問を何度か受けてきたようです。
ところが、中には残念ながら悪意のあるような、「情けないお母さんだよね」という単なる悪口に近い指摘を受けたこともあるようで、そのときはとても傷ついたということでした。
その内容は実は私に話したことはありませんでした。
やっぱり子どもながらに、私の方が傷つくと思って、隠していたようです。
おしゃべりな娘が、全く理由を全く話さないで、でも悔しそうに、こらえるように泣いていることがありました。おそらくそれらはこうしたことが理由だったのだとピンと気づきました。
ただ、娘はそれを、ただやり過ごしたり我慢したりして消化したのではないらしいのです。それとなく私に、「容姿について聞かれたらどうするか」という話を聞いてきたことがありました。それに対して「聞かれて嫌だと思ったこともないし、でも深く説明を求められているわけでもないから、病気だからと答えるかな」なんて説明をしてきました。
それを娘なりに解釈してうまく立ち回ってきたようです。
悪意があるものでも指摘してくれたということは、「お母さんが病気である」ということをわかってもらえるチャンスだと思うことにしたとか。そしてこう説明してきたんだそうです。
「風邪をひいたらくしゃみをするでしょう?それと同じで、お母さんも病気だから足をひきずっているんだよ。どちらもみっともなくないんだよ。」
我が子のことながら、きちんと理解して、わかりやすく伝えようと努力したのだということに感動すらしました。
ありがたいなあと思いました。
こうした説明で、お友達は大体が「そうなんだ!」と納得してくれて、その後私を馬鹿にしたような表現をすることはなくなったそうです。
もちろん、これは例外でもあって、こうした質問をあたたかい気持ちでしてくれたお友達もたくさんいたとのことです。
母親になって思うことは、自分のことはさておいて。やっぱり子どものことは特に心が痛みます。
でも、子どもにとっても母親というのは同じように守らなければ、私が強くならなければと思う相手でもあるようです。決して親が守るばかりではないのだなと思い知らされています。
こんなお母さんでも、みっともなくない?大丈夫?と何度も娘に聞いてきて、保育参観とか、運動会とか、そういう行事に行くことも控えるべきか考えたこともありました。行きたいという自分の気持ちはさておいて、娘がいじめられたりしないか不安だったのです。でも、絶対来て欲しいと娘は譲りませんでしたし、私もそんなに周りは私のことを気にすることもないからとカラリとしていました。事実を知った今、娘に対して申し訳ない気持ちもなくはありません。
でも娘がそんな風にして自分の中で戦い、社会に存在する悪意を打ち消していたことはものすごいことだなと感心してもいます。
悪意が自分の中に全く芽生えないかと言ったら嘘になります。
だからこそ喧嘩するのでも仲違いするのでもなく、きちんとした説明でもってそれを消そうとした娘を褒めてあげたいですし、それを受け入れたお友達たちもえらいね、と褒めてあげたいです。
こういう世界が、もっともっと、そして大人の世界にも広がったらいいのになと思っています。
今はオンラインでのイベントがたくさんあって、今まで諦めていたことも参加したり視聴したりできるので、ありがたいなと思っています。