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連載:関寛斎翁 その5 藩主斉裕と長女賀代姫

2019-11-01 05:00:00 | 投稿

 

 

 

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

藩主蜂須賀斉裕長女賀代姫

『 寛斎が御典医として脈をとることになった十五代藩主斉裕は、もともと十一代将軍徳川家斉の二十二子である。家斉は寛政から天保にかけて将軍の座にあること五〇年に及んだが、このころは江戸文化の類廃期であって、家斉自身の側室四〇人。その子五五人と称され、側近は将軍の子たちの身の振り方に忙殺されたという。斉裕も、そのようにして阿波藩に天降りした立場にあったから、とかく藩政からは敬して遠ざけられることにならざるを得なかった。しかし彼は、そのような出生にありがちな凡庸な人物ではなく、ひとかどの教養と識見とを具えていた。

斉裕は公武合体論の立場から朝廷や幕府に建白したり、海防や洋学取り入れに関心を持ち、最晩年には「ナポレオン祀り廟」を建てて式典をあげ、鮎喰原で洋式調練を行うなどしたが、彼の意を体した家老安芸頼母が京都で暗殺され、勤皇討幕を性急に唱える世嗣茂詔と対立を深めるなどのなかで、次第にいらだちと絶望とに陥った。病状は今でいう強度のノイローゼらしく、鈴木要吾によれば「精神沈欝して食気なく或はさながら小児の如く時として極老の如く条理を失ふて、只々安逸に楽むという風であった。」という。

一方、阿波藩は、元来、閉鎖的・保守的な藩風で知られ、蘭方医は須田泰嶺が初めてで、しかも江戸詰めだったから、徳島の城中に入った蘭医は寛斎が皮切りだったことになる。その彼が百姓出身の異国者でもあるというので、城中では必ずしも好意をもって迎えられなかっただろうことは、想像にかたくない。しかし斉裕は、城中で似たような疎外状況に置かれた彼に親近感をもった。そしてさらに。ありきたりの側近武士とは全く風格が異なり、ひろく実社会や西洋の文物にも接している寛斎の人柄と、誠意のこもった診療ぶりに深い信頼を寄せるようになった。
 また、斉裕の長女賀代姫(一五歳)も、労咳つまり肺結核を患って病の床にあったが。寛斎の手をとり、その暖かい親身な看護に感謝しながら世を去ったという。』

「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四朗著

『 斉裕の長女賀代姫は十五歳。一昨年から労咳を患い病いの床にあった。いままで診ていた侍医は葛根湯や高麗人参の粉末を湯に溶かせて飲ませるだけで、労咳への効果的な対応をとっていなかった。不治の病といわれている労咳であったが、自分がもう少し早く診てあげれば、姫もここまで悪化はしなかったであろうと悔やまれてならない。いま寛斎にできることは、誠意を持って尽くすことだけだ。寛斎は労咳のうつることも顧みず、親身になって賀代姫を救おうとした。その寛斎の心が通じたのか、賀代姫は寛斎が来診するのを心待ちにし、よくなっているのではないかと錯覚するほど体調をもちなおしてきた。
「医は仁術」という言葉を身を以て知つたのは賀代姫の診察を通してであつた。
寛斎は腹が立った。姫の傍に寄り添い手を握ってあげるでもなく、感染しないように離れたところから問診し、高麗人参を煎じて飲ますことしかしなかった侍医たちの医道はいったいどうなっているのか。医はすたれてしまっている。
 それから半月後、身命を賭した寛斎の看護のかいなく賀代姫は、十五歳の若さで冥界に旅立ってしまった。死に顔は凛白されたように白く、長い髪は漆黒に輝いていた。そして、かすかに口を開き笑っているようにみえた。
寛斎は自分に言い聞かせ。このような不条理に対して科学がどこまで挑戦できるかを自分で試そうと決意した。
賀代姫が父斉裕に宛てた文の中に、寛斎が親身になって尽くしてくれた看護や温かい人柄に感謝する言葉が切々と綴られ。絶望の中で生きる希望を見いだしたとしたためてあった。寛斎は、それを藩主斉裕から聞いて、「医は仁術なり」という言葉の重さを改めて知った。』

「斗満の河」乾浩

§


藩主斉裕から厚い信頼を得た寛斎は、斉裕自身の愛用していたを拝領している。
そして生涯その鼓を自らの「宝」として肌身離さず、北海道開拓の地にも持ち込んでいた。
それが遺品として発見され、陸別町関寛斎資料館に今も大切に保存されている。
藩主斉裕と長女賀代姫を看取ったことは、寛斎自身にとって大切な思い入れと、生涯忘れえぬ出来事であった。

 

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