十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 イコサックルさんの死の真相を追って(タコ部屋)

2020-06-12 05:00:00 | 投稿

・事件の背景「タコ部屋」
タコ部屋労働について、北海道の人々はその悲惨な情景を語り継いで来ましたが、当時記述された文献をまとめてみます。

【十勝の記憶デジタルアーカイブ】十勝支庁より。
当時八歳だった石橋ヨシ(栄町)は、鉄道工事の状況を「私の親は山子で、木を切り、橋材をつくりながら上利別・大誉地・伏古丹とだんだん奥地に入り陸別に来た。川には橋がなく、道路は馬車が通るだけであった。川を渡る時はアイヌの人が丸木舟をこいで渡してくれた。今の土場あたりが(現在の旭町)昔「たこ部屋」があった所で、その少し上手に私の住んでいた家があった。現在の営林署のあたりは土方(労務者)の焼場だった」と語る。
他雇(たこ)部屋とは鉄道工事等で労務に従事した土工夫の部屋の呼称である。工事現場の労務者に道外者を雇用した者を「他雇」と言ったもので、通俗的には、前借によって「他雇部屋」から抜けられなくなり、我が身を食い削ることから「蛸」とも呼ぼれていた。
 明治40年からの網走線工事では、札幌の堀内組旭川の荒井組・関組が請負者の中核になっているが、工務にはタコが多人数使役していた。特に小利別・置戸間の峠の工事は、トンネルを避けて「割山」といって山を断ち切って線路を敷設する方法をとっているが、当時は機械力もなく、常に数百人の土工夫による人海戦術で工事をすすめていた。池田町史にはタコ労働の証言がある。
明治40年、鉄道は陸別までつきました。(陸別までの開通は明治43年)タコ部屋の人たちが主に労働力となっていたのです。中には事故で亡くなった方も多く、化けて出るという噂があったものです。(池田町大森在住丸山善三)
明治42年9月19日付『釧路新聞』に網走線鉄道工事の状況を報じているので抜粋して記しとどめる。
▼破天荒の虐待
網走線鉄道工事に於ては、人夫を過酷に使役し、時々は牛馬にも等しき鞭撻(べんたつ)を加え、逃走を企てる者あれば捕らえ来て白米二俵を背負わしめ、又は、甚だしき打ち打擲(ちょうちゃく)を加え半身不随に陥れ、是れを放置するなど、其他虐待に堪え得ずして逃走する労働者、中には山中に逃げ込み飢餓に迫り、この世からなる餓鬼道に陥り死亡するものあることは、本紙既に是れを伝えたるところなるが、此の有名な網走線鉄道工事に於ては、前代未聞の虐待を行いたる新事実発見せられたり。虐待する悪漢は、原籍岡山県久米町大井西村大字坪井下162番地、平民土木請負業今村事、三田好三と言えるものにして、足寄郡陸別村に於ける網走線鉄道工事第六区久米組下請を為し居るものにして、人夫約百名程を使役し、相応な羽振りを利かし居るものなるが、此奴は如何なる悪党やら、配下の土工人夫に於て逃走を企てたるものは、懲戒の為なりと引捕え来ると同時に、人夫の天頭(あたま)左部を半分の頭髪を剃り落とし、眉毛半分髭半分等を剃取りて、他人夫の戒めなりとて其の侭被り物を与えず、半坊主・半眉毛・半髭を露出させ激しき労働を為さしめつつ来りしが、此の程、東京生れの鈴木幸太郎(29才)、新潟生れの 小林多作(21才)、大阪生れ河野竹次郎(35才)外数人が虐待に堪えられずして逃走したのを、引捕え来り、いずれも右の方法により懲罰を加え、好い態だと怒鳴りつつ酷役に当たりしめつつありし現場を、足寄郡陸別駐在島村巡査に認められ、雇主三田は其場より釧路署まで引致され留置されて目下取調中。
工事関係者の労務状況を知る新聞記事の中から、明治44年8月24日付『釧路新聞』から転記する。
▼土工人夫の末路
去る17日午前7時中川郡利別東一六番地山崎圧造が、馬糧用の草刈りに出掛けしに、利別停車場附近に於て変死人を発見し、陸別鉄道建設事務所に来り、電話にて陸別なる巡査駐在所に届出しかば、梅田巡査は直ちに現場に急行検視せんとせしむ。紙片に置戸小利別中間幕田義一方と記されありたれば、同家に就て取調べれば、死人は富山県下新川郡滑川町番地不詳阿部亀次郎と言う者にて、当春東京より網走線工事請負人なる丹野駅(端野駅)在住森本某の人夫募集に応じ渡道せしも、生来不健康の者とて過度の労役に堪えず、遂に森本方の解雇を受け加藤智敷と言う者と共に義一方に来り、6月14日より保線工夫の手伝いをなし、労働僅少なれば喜び居しも、7月に至って胃病に犯され仕事も意のままに出来ざるに、自ままになさしめしも健康急に服せず、本月始めより服薬せしも慕郷の念を萠し、病中ながらも暇を乞しより全快を待って出発せしめんと慰め本月15日午前10時頃暇を受けて釧路方面に出発せしなり、然して翌16日義一方雇人竹内宗太郎なる者小利別に用件を帯び出張せし、その帰途60里20鎖の橋梁の下に病い犯され居るを認めたれば、急ぎ帰宅し連れ戻らんと加藤智敷外二人と現場に来りしに、何れに行きしか姿を認めざりしとされば、亀次郎は病を耐 えて前記の所迄辿り付きし時、病勢昂進して死亡せしならんと。【十勝の記憶デジタルアーカイブ】十勝支庁

関牧場創業記事】明治39年執筆
七日、三角測量吏吉村氏は別山に三角台を建るが為めに来泊す。此際道路新設にて、請負人堀内組病者多しとて、藤森彌吾氏を以て頼み来れり。此れ我牧塲に向うて道路新設たるを以て、喜んで諾す。
 此際土方人夫は逃げて北見に走る者多く続いて来り、予が一名にて留守するに当りても来り強て喰物を乞わるる事あり。或は川をわたり、或は裏口より突然に来るあり。或は跡より追い来るの人あり。其混雑なるは実に一種の世界たるを覚えたり。九月十六日、堀内組病者診察として愛冠に行くに、道を曲げて「ニオトマム」に馬匹を見んが為めに、「ヤエンオツク」を同行せり。「命の洗濯」明治45年3月 警醒社書店

「寛斎はこの独立自営農民創出計画を免囚保護と結びつけていた。斗満の関農牧場は帯広地方から北見、網走への唯一の関門であり、奥地の深山である。網走にも帯広にも監獄があり、囚人がしばしば脱走してこの奥地へ逃げてきた。彼らはよくクンベツ(断崖と断崖との間の難路)に追いつめられ射殺された。寛斎はこれを目撃して、非常なショックを受け、囚人でも衣食住の道さえ与えたら必らず正道に立ち帰るものと信じ、免囚保護に乗り出し、彼らを農牧場に入れて、独立自営農民に仕立て上げることを計画した。しかし、独立自営農民創出計画自体が、全面的に実現不能に陥ったため、この免囚保護計画も実行されずに終わった。」【関寛斎】川崎巳三郎著
「北海道での囚人労働は道路開削、炭鉱や硫黄採取などでも行われ、そのたびに多数の犠牲者を出していました。「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と、国会で追及されるに及びついに明治27年廃止されたのです。しかし、この囚人労働の歴史はその後も『タコ部屋労働』に引き継がれ、内地(本州)で食いつめた労働者や外国人を巻き込み大正、昭和へと押し進められるのです。」
【北辺に斃れたタコ労働者】松尾英樹氏

網走線は十勝国池田から網走に至る約188キロの鉄道で、一九〇七(明治四〇)年に池田から着工し、北見との国境までを利別川沿いに、国境をこえた置戸から野付牛までを常呂川沿いに進め、一九ニー(大正元)年に網走までの全線を開通させた。
この工事には、当時の鉄道指定請負人8人が全員参加した。
すなわち堀内組(廉一、札幌)、荒井組(初太郎、旭川)、久米組(民之勁、内地)、関組(政五郎、小樽)、大倉組(粂馬、東京)、関組(政五郎の倅広吉、小樽)、沢井組(市造、内地)、落合(亀男太、四国)の八組である。

置戸をはさんで十勝側を関組が、北見側を荒井組が請け負った。
荒井組が分担した、置戸から常呂川が流れ出す地峡の断崖削りと護岸工事が難工事だったと、『業史』に記されている。

 「難所の開削工事と両々相侯って、多数の職工人夫を必要とする時に当り、悪疫流行し、罹病者相次ぎぎ死去また続出せしを以て、荒井組は、これが補充に一方ならず困難したのである」
一九〇九(明治四二)年、十一歳のときに置戸の中里に広島団体として集団入植した阿部チシヲさん(一八九八・明三一年生まれ、在置戸町)は、さきに道路が通じ、ひきつづいて鉄道が開通するのを、十五歳のときに見ていた。
チシヲさんによれば、

「タコ部屋の細長い飯場(関組の下請けけ飯場)が常呂川の合流点にでき、赤いフンドシ(タコは上半身裸で赤腰巻やフンドシ姿が多かった)姿のタコが、肩をこんなにはらして、棒で叩かれて働かされていた。死ぬと焼いたり埋めたりしたが、埋めた場所は一箇所だけではない。
タコは山へ向かってよく逃げたが蕗の中で死んでたり、山の中でも死んでいた。
あるとき私の家へ逃げこんできた夕コがいました。
足をはらした脚気、だったので、水を飲ませないようにしてたら、こっそり飲んだらしくて死んでしまいました。
母親から来た葉書を一枚持ってたので、親もとがわかって、父が葬式を出してやったと知らせると、礼状が来て八円はいっていた。
勝山の墓地に埋めたが、十八歳の若い人だった」

母親の手紙をタコ部屋でなんども読み返していたにちがいない若者の悲しみが伝わってきた。


当時、関組の帳場をつとめた河西貴一氏(のち道議)は、次のように語っている。

「この工事に募集された土工(タコ)は、(中略)募集者の口車に乗せられて土工になったもので、上は大学卒業生から浪曲家、はては祭文語りもおるという雑多さであった。
中には内地で村長以上の職にあったろうと思われる人もおり、前歴は明かさなかったが、故郷の奥さんの手紙は実に能筆で、最後の”旦那様へ”と結ぶあたりから想像するに、かなりの身分と思われた」(『置戸町史』)

『常紋トンネル 北辺に斃れたタコ労働者の碑』小池喜孝著

<<続く>>

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6 コメント

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コメントありがとうございました (会員K)
2020-06-17 13:49:00
山女様こんにちは
拙い投稿にご興味をいただき、また示唆に富んだご教示を賜りありがとうございました
これからもいろいろご指導をお願いしま
返信する
Unknown (山女)
2020-06-16 17:49:13
意義のある通信ができました。ありがとうございます。
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コメントありがとうございました (会員K)
2020-06-15 14:01:04
山女様何度もご教示いただきありがとうございます。
調査の途中で識者から「翁の名誉のためパンドラの箱を空けるな」とお叱りを受けたこともございます。
しかし、関寛斎の曾孫である梅村聡医師がすでにふたを開けてしまいました。
その後も、定説とは整合のとれない新証言や新資料が発見されてくるにつけ、看過できなくなりました。
「本別に落ち延び、蒙古へ渡って行った」という義経伝説のようなロマンはありませんが、史実はいずれ誰かの手により発掘・証明されるでしょう。
「修羅のにはきほひ立にし跡見れば やがて悪魔やつづいてぞ来ん」(城山三郎・人生余熱ありから)
寛斎翁はある種の別な予感をしていたのかもしれません。
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Unknown (山女)
2020-06-14 19:54:33
歴史へのご対応、敬服します。あらためて「タコ」は明治前半混乱期の国事犯、軍事犯等を収監、利用すべく朱色獄衣、素足の囚人(吉村昭の赤い人)の事ではないと思いました。また、関寛斎の自裁については、「幾度か破れ破れて斗満原身は空蝉に心成仏」(城山三郎・人生余熱ありから)を感じとっています。
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コメントありがとうございます (会員K)
2020-06-14 11:38:12
山女様コメントありがとうございます。
歴史上の事件や人物の評価はその時代により変わってゆきます。
また新しい資料や遺物の発見によって大きく変化することもあります。
「鎖国」という言葉が高校の教科書から消えていることを最近知りました。
関寛斎の「自裁」については諸先生たちが定説化してしまいましたが、私は違和感を覚えました。
陸別の隣町で育ったからかもしれません。
歴史上の人物に多角的なアプローチをすることは大切だと思い、100年以上前の足跡や記録を自分の足で追いかけています。
その過程で、国内には存在しなかった新事実も発見されました。
結論は出ないかもしれませんが、その経過を少しでも皆様にお伝え出来ればと考えています。
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Unknown (山女)
2020-06-13 20:12:37
吉村昭の「赤い人」を読んだことがあり、北海道開拓の惨い事実だと思っていました。更に、本投稿で食い詰め志願した人達を我欲のため使い捨てした人もいることを知りました。現在とは過酷な事実のうえに存しているものですね。特攻隊員ように。なお、関寛斎の自裁については、本人しか分かりようがありせんよね。
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