十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

明治の歌人 石川啄木

2020-07-17 05:00:00 | 投稿

 

石川啄木1886年(明治19年)生まれで、歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』などを作っているが、啄木の短歌で記憶にあるのは次の二つで、享年27歳で亡くなっている。

 

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」

「しらじらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」

 

前の句は、啄木が函館山から東へ伸びる大森浜で作ったとされている。その浜の先には、歌手 森昌子が、「立待岬」を歌ってヒットした立待岬がある。

 

啄木が函館にいたのは、小樽に行く前の132日間であったが、友人に向けた手紙の中で「死ぬのなら函館で」と書いていたそうで、啄木にとって波乱万丈の人生の中で、束の間の平穏な時期だったのかも知れない。

 

その後、年齢22歳の啄木は函館から小樽、そして釧路に行き、二つ目の句を読んでいる。その短歌を書いている歌碑は釧路港を見下ろす米町公園にあり、近くに住んでいたこともありたびたび行った。

 

啄木は、料亭で働いていた芸者小奴(こやっこ)と恋に落ちたが、現代流で言えば不倫であった。啄木は釧路新聞社の記者をしながら多くの短歌を残しているが、滞在期間は76日間と短い期間であった。

 

なお、同世代の作曲家 滝廉太郎も1879年(明治12年)に生まれており、啄木と同様に結核を患い満23歳で亡くなっている。ご存知のように滝廉太郎は、文部省唱歌の荒城の月を作曲している。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

十勝の活性化を考える会」会員募集 

注) 滝廉太郎

 

廉太郎は、日本音楽家作曲家明治西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。 一般的には「滝 廉太郎」と表記されることの方が多い。

 

1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。瀧家江戸時代に、豊後国日出藩家老職を代々務めた上級武士の家柄である。

1894年(明治27年)4月に同校を卒業し再度上京。同年9東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学し、ピアノを橘糸重遠山甲子に学ぶ。

彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。

また、人気の高い曲の一つである「」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年(明治33年)に編纂された幼稚園唱歌に収められた。

 

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、518日にドイツベルリンに到着。

同地で日本語教師を務めていた文学者の巌谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。

文部省外国留学生として入学、ロベルト・タイヒミュラーにピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲や音楽理論を学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。

1902年(明治35年)710日にドイツを発ち、ロンドンを経由して1017日に横浜に着く。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。満23歳没(享年25)。

 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿