今回の新型コロナウイルスによるパンデミックが生じなかったならば、どのような世界、どのような日本になっていたのでしょう。競争社会がますます熾烈化し、地球温暖化によってますます気候変動が大きくなっていた可能性もあります。だから、コロナ禍は考えようによっては経済活動にブレーキが掛かったものの、人類の歴史上で見れば良かったかも知れません。なぜならコロナ禍は、人間が地球温暖化によって作り出したものだという有識者もいるからであります。
さて、本題の生存権と人権を考えてみましょう。
令和2年12月8日、NHKラジオで、言論NPO代表の工藤泰志氏が、“日中両国の関係を読み解く”と題して語っていたが、その中で印象に残っている言葉があります。それは、“生存権”と “人権”であります。
中国では、新型コロナ禍に絡んで、個人のプライバシーの前に“生存権”を大切にしているようであります。一方、日本では自由を重んじるから、生存権と共に“人権”も大切にしています。その違いが中国では、「新型コロナ禍」を早く終息したように見受けられ、日本で長引いている理由なのかもしれません。すなわち、この違いは自由主義と共産主義という体制の違いのようにも思えます。
日本は憲法で生存権が守られていますが、現在のような緊急事態においては、国家が優先するか、個人が優先するのかを掘り下げてみたい。このことは、新型コロナ禍において「生存権」を優先するか、「経済」を優先するかにも似ているようにも思えます。なお、命を大切にすることは、両国にとって違いはありません。
人権は、歴史的に見て人類の普遍的な価値ではありませんでした。人類は幾多の試練から、権利があると主張し続けて闘ってきた結果、人権を勝ち取りました。主張し続けることで、やっと維持できるものが人権です。
無論、他人に迷惑や自分勝手な行動が許されるわけではありません。公共の福利のために、一定の制限を受けます。「公共」とは、「人々」と同じ語源を持ちます。けっして国を意味する「公」や抽象的な国益のために、人権制限が許されるわけではありません。
次に条文をひも解いてみます。第12条後段では、(1)人権を濫用してはいけない (2)国民は、公共の福祉のため人権を利用する責任を負うと定めています。(1)言わずもがなで、権利を好き勝手に行使できないということです。
(2)の「公共の福祉」の意味は、「全国民の利益」(社会の利益)のことです。
しかし、社会の利益のために人権を利用する責任を負ったり、社会の利益のために人権を制限すると人権の保障が薄れてきます。ただ、社会の利益と個人の利益とを比べると、社会の利益の方が多いと思います。
そうなると個人の利益を制限する人権保障が成り立たなくなってしまうので、「全国民の利益(社会の利益)」を言葉どおり取らない方が良いと思います。ここで悩ましいことは、「表現の自由」と「プライバシー」の問題で、両者のぶつかり合いの調整が必要になることです。乱暴な言い方でありますが、どちらに「我慢してもらうか」ということでありますが、およそ「全国民の利益」と捉えざるを得ないと思います。ただ、憲法12条の後段では、他者の人権を不当に制限しないよう、人権を行使しなければならないことを定めています。
私は憲法学者ではありませんが、憲法12条にも書いているように、自由や権利には必ず責任が伴うということであります。そして、この憲法12条を守るためには、不断の努力が必要であるそうです。
私にとって米軍基地に関する沖縄に住んでいる老人女性の言葉が、忘れられません。 「わしゃは、憲法や法律のような難しいことは分からないが、道理は分かっているつもりだ」と言っていました。憲法や法律は、道理が明文化されたものだと思っています。その道理があってはならないと思うのですが、常識と同じように時代によって変わっていくのかもしれませんね。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) 憲法12条
日本国憲法 第12条は、日本国憲法の第3章にある条文で、自由権及び人権を保持する義務、その濫用の禁止について規定し、第11条・第13条とともに、人権保障の基本原則を定めている。
第十二条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
(出典:yafoo検索より)
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