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連載:関寛斎翁 その31 永遠の理想と死

2020-05-08 05:00:00 | 投稿

 

 永遠の理想と死


 生涯を賭けた素願をめぐる深刻な苦悩に加えて、このころ、八〇を過ぎた寛斎の心身はさすがに衰えを免れることができなかった。すでに『創業記事』の終わり近くでは、記憶や思考力、消化器の弱まりを自己診断し「アヽ老境は実にアワレなり」と洩らしている。
 また、この歎きのなかには、生活上のことも込められていたようだ。又一の長男で陸別生まれの関静吉氏によれば、都会流の生活が身についた母は「お父さん(寛斎)は、房総名物の海草こんにやくというのを、美味い々々と賞味していたが、私はあんな不味いものはないと思った」と語っていたという。
 寛斎は一九一一(明治四四)年の冬には、ついに床につき、翌春、


  暁のともしびよりも細き身に
     なにはのことを語るはかなさ


と詠んでいる。
三月、蘆花の斡旋で、警醒社から『命の洗濯』を出版。これは、彼のそれまでの主な著述・文章を集成したもので、おそらく寛斎はこれを遺書とし、志を子孫や後人に託そうとしたのであろう。
五月には、蘆花とその父一敬に、次の「辞世」と形見の品が送られている。


  諸ともに契りしことも半ばにて
     斗満の里に消ゆるこの身は


  身は消えて心はうつるキトウスと
     十勝石狩両たけのかひ


 ここでは、最愛の妻と誓った志半ばで死を迎える無念さとともに、なお飽くことなく、斗満の西キトウス、さらに十勝、石狩岳の原野を目指して開拓を進めようとの「永遠の理想」が詠いこまれている。
明治帝が世を去り、大正となった十月、生三の次男大二は、祖父寛斎に対し、財産分与を求める訴訟を起こした。
すでに、近く死を迎えることを予期していた寛斎にとって、これが直接の引き金になったと思われる。
すでに老トルストイは奇しくも寛斎と同年齢の八二歳で自ら選んだ死の道を歩み、寛斎の脳裡に刻まれた明治という一つの画期は、天皇や乃木大将夫妻の死とともに、終わりを告げていた。
彼は、医者として無数の人々の命を救ってきたその手で、毒を盛り、自らの生命を絶ったのである。
一九一二(大正元)年一〇月一五日、十勝国斗満北三線一六番地、開拓小屋の一室であった。
愛孫大二による資産分与訴訟の件で、裁判所から呼び出しがあり。又一が父の代理で出頭した翌日のことである。

「関寛斎 最後の蘭医」戸石四郎著

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