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秋霖の合間に里の秋点描。
彼岸花(曼珠沙華は俗称です)の燃えるような赤が目を惹く。
どうも私は、この花が苦手だ。
風景の中で確実に浮いている。
その独特のフォルムも際立つ色彩も自己主張が強すぎる。
日本の湿潤な風土の中で異彩を放つ。
実は遠く万葉の昔、中国からの帰化植物らしい。
いかにも大陸好みの慶事の赤…
というと偏狭な差別主義者に加担しそうで厭なのだが(汗)
被写体としても、頭を悩ませる代物なのだ。
あまりにも納まりが悪いので敬遠している向きもある。
過去に見た彼岸花の写真で、良いなと思った作品の記憶がない。
理由は前述のように風景の中で異彩を放ち過ぎるから。
木立の中の木漏れ陽の先に赤い花が揺れているのを見つけた。
意を決して挑戦してみた。
でも繊細な光の諧調よりも、鮮やかな青空と白い雲のメリハリのあるコントラストを背景にした方が、この花は引き立つ。
あの強烈な色彩に引合うのは、見劣りしない原色との配色だろう。
如何でしょうか?
私が好きなのは金平糖の花(ミゾソバ)。
風に揺れる開花した極小の花のめしべに焦点を合わせ、
息を詰めて風の止まる瞬間を待つ。
あまり長い時間、息を詰めていたので、酸欠になるかと思った(笑)
まだ野菊には早いようだ。
里の芒(すすき)も、穂を開き始めたばかり。
河川敷で目を惹くのはピンクのツルボの大群落。
帰化植物ではないのだが、近年大繁殖している。
(この花も難しいのでパス)
季節は、まだ秋への端境期。
赤トンボ(アキアカネ)の体色が赤くなり始めた。
赤くならない麦色の♀と繋がったハネムーン飛行も、あちこちで見られる。
赤トンボの赤は、やっぱり黄昏の色が似合う。
確かに風景の中での切り取りは何だか無理が有る
夕暮れに浮かび上がる真っ赤な炎はさながらゴッホの世界じゃないかと呟いた事も有る
かつて師匠が一本だけ浮かび上がるような風景描写をした事がありかなりの衝撃を・・・
ミゾソバは私も金平糖と呼んでます
大好きな花ですね
一昔前は死人花と呼ばれて(お彼岸に咲くことと墓場に多い花でした)嫌われていました。
冷静になってカメラを向けてごらんなさい。
この形状と燃えるような赤は、かなり特異です。
それが群生して咲くから余計に周囲から浮いてしまいます。
確かにmisaさんの云うように単体ならフォルムが面白いので絵になるかもしれない。
冒頭の写真は、いかにも感があります(笑)
青空との組み合わせは、どんな被写体でも映えますから。
安易ですね。
金平糖の花は、マニュアル開放値で撮っているので合焦点が針の穴です。
風が止まらないので長時間息を詰めて、頭に酸素が廻りません。
終わったら立ち眩みで昏倒しそうでした(笑)
さぁmisaさんもご期待の山の紅葉ですが、
週間予報を見ても気温が下がりませんね。
平地の最低気温が20℃以下、17℃くらいにならないと山の紅葉は進行しません。
今年は日照りで植物には、かなりダメージを与えたので条件は悪いですね。
この間メールで知らせたように街の街路樹の立ち枯れや桜の色づく前の落葉と裸木が目立ちます。
月末に気温が下がれば期待できますが?
昨年のような異常に早い9月下旬に紅葉のピークは無さそうです。
リンクしている風雪ながら暮らしさんが毎週のように石鎚へ行かれているので楽しみにしましょう。
http://takawai.blog.fc2.com/
利休は「花は野にあるように」と言い残しています。
17日に家の近くの棚田に彼岸花を写しに行きましたがこの場所はまだ蕾でした。
ここは緑の棚田に彼岸花が控えめに咲くので好きな場所です。
私は花と葉が一緒に写っている写真が好きで、背景や構図など気にしないで花ばかりに集中して写すのでいつまでたっても上達しません。
ランスケさんのように背景の綺麗な写真を撮れるようになりたいと思っていますが、こだわりがあるのでなかなか脱皮できません。
野山に出て自然写真を撮ることは、心身の健康にも好い事だと思います。
登山人口と一緒で写真愛好家も我々中高年層がコアな年代なのでしょうね。
何かを創造し表現することは頭を活性化するのでボケ防止にも最適。
お互いに豊かイメージを持って秋の野山に出掛けましょう。
いやぁ、驚きました。
単に私の想像力が貧困だっただけでした。
思いもしない発想で彼岸花を捉える人がいるものです。
この奇異な花を異界の花としてイメージすれば、
なるほど、すんなりと風景の中に納まります。
一般に流通している在り来たりのイメージで捉えるからツマラナイのです。
前回の記事で、あれだけ誰かの真似でない独自の世界観を主張したのに、
自分自身が凡庸の罠に陥っているようでは情けない。
固定観念に囚われないで柔軟な想像力を膨らませないと。
ついでにアルカロイド系の有毒物質である彼岸花の効用を貼っておきます。
田圃の畔に繁殖した理由も分かります。
http://matome.naver.jp/odai/2138008603401060501
創造力は鍛えて増えるものでは無いと思います。
きっかけ・・・日本の技術がそうですね。
小さなことに注意する、そんな真摯な向き合い方が必要だとランスケさんの写真を見て気がつきます。
一枚目の写真、超ワイドで十分、お彼岸の季節を表現されています。
秋、美事なミゾソバ、この名前はランスケさんに教えて貰ったような気がします。
アキアカネの羽音が伝わってきますよ。
雨雲レーダーの動きを見ると太平洋岸から四国山地にかけて真っ赤になっています。
足の速い台風なので影響が最小限で済みそうなのが幸いです。
近頃、風呂敷を広げて表現の意味など語り出して、お恥ずかしい。
私は、こうやって言葉を外に向けて発することでモチベーションの低下した自分を鼓舞するところがあります。
一度発した言葉は消せませんから、自分の退路を断つことで、やっと重い腰を上げるという算段です。
周囲には迷惑な話です(苦笑)
前回の記事にも書きましたが、
写真は流れ続ける時間をフリーズドライして、一瞬を留める行為です。
だから本来は記憶媒体としての記録性が優先されたはずです。
文書と共に歴史的検証物としての価値が高い媒体だと思います。
宇和島や南予の風土に根差した祭礼や季節の風景を忠実に撮り続ける、
鬼城さんやお友達のうわつさんの写真は、その記録性という写真本来の価値を理解されていると思います。
おそらく後10年も経つと、南予という風土が培ってきた貴重な文化遺産が次々と消えてしまうかもしれません。
生産性や効率化ばかりを優先する人や文化を大事にしない国ですから。
残念ながら私は、子供の頃から妄想癖が旺盛で地道に何かを成し遂げることが苦手でした。
でも妄想癖の強い子供にも、それなりの生きる場所がある世界でありたいですね。
「そんな子がおっても、かまん。かまん。」ですよ(笑)
妄想癖の強い子は社会的には役に立たない木偶の坊かもしれないけれど、
山下清や宮沢賢治になるかもしれないでしょう?
木偶の坊(でくのぼう)を許容できる社会の方が住みやすい。
私たちは本来ゆとり、優しさ、温もりといったものを求めているのに現実は効率、能力、成果といったことが重視されているように思われます。
私たちは果たしてこういったものを求めているのだろうか?
昨今よく耳にする「勝ち組、負け組」や「格差社会」。
企業の儲けのためには働く者を平然と失業させる。
少なくなった社員をサービス残業へと駆り立てる。
国の将来を背負う若者をフリーターや派遣社員として使い捨てる。
いじめを苦にした小中学生の自殺も相次いでいる。
我々は人間だから弱肉強食でいいはずはない。
私たちの求めている日本はこういった日本ではないはず。
木偶の坊は、もちろん宮沢賢治の「雨にも負けず」を締めくくる有名な一節です。
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
残りの時間を考える年齢になると、こういう生き方がいいですね。
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
好々爺は無理でしょうが、丈夫な身体と粗食で過ごす木偶の坊で在りたいです。
ブログのタイトルも木偶の坊日記とか木偶の坊徒然とかに変更しましょうか(笑)
この国は、この先、経済成長なんかしない。
人口減少し続け、爺さんと婆さんだらけの国になる。
この事実を受け入れたら、自ずと選択肢は決まって来るのですがね。
「あるものでやってゆく身の丈に合った暮らし」でしょう。
無い物ねだりばかりするから、どんどん歪みが大きくなって、
負の遺産ばかり将来世代に押し付ける、こんな強欲な国になってしまったのです。