思いつくまま感じるまま。

身辺雑記です。
何でもありの記録
HN天道(てんとう)

ミネルバのふくろう

2006年11月15日 | Weblog
「ミネルバのふくろう」という言葉が、何故か記憶に残っている。
学生時代にたま~に出席した講義で、いかにも学問に生きているような感じの古めかしい教授の話していた言葉だ。
なんか有難~いお言葉だったような記憶だけが残っている。

せっかく覚えていたのだからと、もう一度ネットで調べてみた。
やはり格言に近い有名なお言葉であった。

正確には
「ミネルバの梟(ふくろう)は夕暮れに飛翔する」
というドイツの哲学者ヘーゲルのお言葉であった。

 ミネルバはギリシャ神話の知恵の女神。
 ふくろうはその女神に仕える侍従。
 夕暮れは、日中に起こった多くの出来事が終わった後の意味。

つまり、学問とは出来事の結果を分析したり評価したりするのに役立つものであって未来を予測することは出来ないものだ、ということらしい。

確かに一面の真理かもしれない。
しかし、未来を予測できない学問ならあまり意味が無いな。

下手な考え休むに似たり、という言葉もある。
証券アナリストが大金持ちになれないのもその言葉どおりだ。

いじめ問題に関しては、徹底した分析評価でいじめ撲滅の方策を見出し解決に役立つ知恵を見出して欲しいと思う。
しかし、今の識者といわれる人達の発言を聞いても「ミネルバのふくろう」の感じしか持てない。


集団登校

2006年11月14日 | Weblog
先日の当マンションの理事会で小学生の集団登校時の態度が話題になった。
毎朝8時前後に小学生20名ほどがエントランスに集合して6年生が先頭に立って近所の小学校まで集団で登校する。
大人の引率者とかはいない。
全員がそろうまでエントランスで皆が待っているわけだが、走り回るは、帽子を投げあうは、エレベーターのスイッチで遊ぶはで、その時間に出入りする人は大変迷惑をしているということが話題になった。

理事の一人も小学生の子供が居るらしくうつむいている。
管理人に注意してもらうにも、管理人は9時出勤なので現場には居合わせない。

ある肝っ玉母さんタイプのおばさんが
「私がその時間に出てきて、怒鳴りつけてあげても良いけど、角が立つやろから止めとくわ」
と発言。
小学生をもつ親も
「そんなに迷惑かけているとは知りませんでした」という。

結局そういう事実を親が知らないことが問題なので、「注意事項」として管理人名で掲示板に張り紙してもらって、親の自覚を促そうということで決着した。

くさい物に蓋、の感じは否めない。
子供の親が知らんはずはないし、騒ぎまわる子供達を現場で見ても注意したり叱ったりする大人も居ない。
自分は手を下したくないが「何とかならんの?」と理事会で不満を述べる。
今の時代の風潮を反映しているような感じを受ける。

居たたまれない

2006年11月14日 | Weblog
女房が
「ノーメイクで買い物に行ってくるわ」という。
「え、どこへ、何を買うの?」
「卵よ」
「何で急に卵?」
「10個で88円のチラシが入ってるの、先着500名だからまだ大丈夫」
「ふ~ん、普通はいくら?」
「200円くらいよ、こういうチラシを見ると居たたまれなくなるのよ」

この「居たたまれない」の使い方、少し変だな、と思ったがまあいいか。
また帰ってきてブツブツ言うだろな。
「ノーメイクのときに限って知り合いに出会うのよね」だ、多分。

もう寝よう

2006年11月13日 | Weblog
今日も私自身に関して言えばどうという事が無い一日だった。
つい先ほどのニュースでは、「いじめ」に関するいくつかの事件を取り上げていた。
生徒の自殺、校長の自殺、それに幼子を殺した両親のニュース。

「弱いものいじめをするなっ!」とは誰も教える人がいなくなったのだろうか。
「弱いものは徹底していじめろ」という風潮が出来上がってきたようにも思える。

明日もこれといった楽しみもなさそうだが、もう寝よう。

花束贈呈

2006年11月12日 | Weblog
第9のレッスンも来週が最終の12回目。
先週生徒の一人(おっさん)が、最終日に先生に花束を贈呈したいのでカンパをお願いしたいと予告していた。

今日は予告どおりカンパの集金袋を6個ほど準備してきていて、各最前列の人に回覧を依頼していた。
50円か100円程度ということだった。

回覧はたちまち終わり、最前列の人の立会いでカンパのお金の集計が出来た。
合計16000円になったという。
更にそのおっさんは「この会場の近所にお住まいの人おられませんか」といって2名ほどが名乗り出た。
そして来週贈呈する花束の購入を依頼していた。

「うむ、こいつ出来るな!」と感心した。
人を組織して動かす術を心得ている。
中には「何じゃと、何で花束やねん、今までそんなことしたこと無いぞっ」と思っているものもいたはずだ。
しかし殆どの人がカンパした様子だ。
彼は自分の意思を貫いてすべての人を動かしたことになる。

来週の最終レッスンでは講師の先生の歌曲を披露してもらえる事になっている。
誰かが無理言って頼んだみたいだ。

文化勲章

2006年11月12日 | Weblog
今日の新聞に瀬戸内寂聴さんが文化勲章の授章式に臨んだときのことを書いていた。
文化勲章というものにあまり関心は無いが、叙勲の栄誉を受ける者にとっては大変名誉なことだろうとは思う。

寂聴さんはまず一番に何を着ていくべきか思い悩んで何度も電話を入れたそうだ。
授与式の当日は、受勲者の間ではもっぱら授与の手順についての話題が中心だったとか。
絶対転んではいけないという思いも強かったとか。

みんな凡人に帰っているような感じでうれしい。

ああ勘違い

2006年11月12日 | Weblog
昔「48歳の抵抗」という一世を風靡した有名な小説があった。
一昔前48歳は既に老人の域に入ろうとする年代であった。
私は実はこの石川達三の小説は読んだことが無い。
主人公は女とばかり勘違いしていたが、実は主人公は男性で、老いに抵抗して自分の娘ほどの年齢の女といけない関係になるという大変うれしい小説であるそうだ。
今の時代はおとこ48歳はまだまだバリバリで老いを感じる人はおるまいと思う。
少なくとも一昔前から見れば10年以上は若返っている。

私は主人公は「女」とずっと思いこんでいたし、女の48歳といえば排卵停止の年齢で女が老いに逆らって生きようとする小説かと思っていた。
「女があがる」年齢を象徴していると言う思い込みである。

昨日もある女性と下ネタ話をしていた。
彼女は48歳、子供がいない。

「無理すりゃ生めんことはないよな」
「絶対無理よ、もう卵子製造して無いもん」
「ふ~ん、昔48歳の抵抗という小説あったよな」
「何それ、知らないよ」
「えっ、知らない。あんたと俺の年齢のギャップは15年位しかないよな、知らない?」
「知らない知らない」

という調子で、その時私はその小説は「ゲッケイ終了」の女を主人公にした小説のつもりで話を続けようとしたが、ふと実際には読んだ事もないし内容も分かっていないことに気づいて不安になって、その話は止めにした。
帰ってから調べてみると案の定とんでもない思い違いであると分かった。

こういう思い込みは人生の過程で自然に醸成されていっていつの間にか疑うこともしなくなるから恐ろしい。
それが思い込みでまったく間違っていたと気づかされたとき、過去の人生の一部を否定されるような愕然とした思いに陥る。
間違いだったと気づかないで生きていたほうがどんなに気が楽か。
私は時々そんなドジな落とし穴に落ちている。

ケニアのバレーボールチーム

2006年11月11日 | Weblog
ケニアのバレーボールチームが話題になっているみたいだ。
私はテレビでも見たことが無いが話はこうだ。

今日はカラオケのお店で新曲を練習した。
数人いた客が4時を過ぎた頃に皆帰ってしまったので、同じ新曲を数回練習させてもらった。
その後ママさんとお喋り。
彼女が最近面白いテレビ番組が無かったが、ケニアのバレーボールチームの話が面白かったといって話してくれた。

ケニアってアフリカの後進国でしょ。
だから国も貧乏なのよ。
バレーボールの選手に選ばれるのは、ケニアではエリートらしいよ。
選手は子持ちが多いらしいよ。
選手になれれば十分食事が取れることもあって太目の選手が多いよ。
監督は日本人なのよ。
とにかく貧乏国で彼女らは恵まれた生活してるわけよ。
10日間くらいの休暇で故郷に帰ると妊娠して帰ってくる人が多いらしいよ。
とにかく皆おおらかな感じよ。

そんな話ですが私は実際にテレビを見たわけではありませんので真実のほどは分かりません、でも何か今の日本にはないおおらかさを感じてしまいます。


共産主義

2006年11月10日 | Weblog
若い頃といっても晩熟の私は何でも人より遅いが、初めてマルクス・レーニン主義に触れたときは目からうろこのような感動を覚えた。
これぞ人類の未来を指し示す理想の社会と感じたものだった。

「人は能力に応じて働き必要に応じて受け取る」
あれから40数年が経過したが、世界の動きはまったく逆の動きを続けたと思う。
人間の欲望は限りなく、富めるものはますます富を蓄積し、持たざるものは「ワーキングプア」と呼ばれ、いくら働いても貧乏から抜け出せない社会。
ますます貧富の差は拡大していく。

共産主義を目指した国々も権力を手にした一部の人々が圧制を繰り返し、最上層の階級として民衆を弾圧してきたとしか言えない。
すべてを国家が取り仕切る社会主義社会は逆に発展の原動力とはなりえず、人間の富への欲望を原動力とする市場経済社会の原理を取り入れざるを得ない事態になったことは、ロシアとか中国に見て取れる。
ロシアもも中国も今や極端な貧富の差が拡大し続けている。

急激な人口の増加は、地球環境を収奪しつくすほどに大量のエネルギーと大量の食料需要を生み出し、あらゆる資源が枯渇し始めている。

大げさに言えば「人類よ、どこへ行くのか」といいたくなる。

国民は健康で文化的な生活を営む権利を保証される。
どこかで聞いた言葉だが、国家はそれを保証する義務がある。

 医療費の無料化
 一定の生活が出来る住宅の保証
 最高学府までの教育の無料化
 出産育児の手厚い保護
 食の保証
 衣料もホドホドのおしゃれはしたい
 快適に過ごせる職場の保証

少なくともこの程度の生存のための保証は必要だ。
北欧の超福祉国家ではこのうちのいくつかは既に保証されているように見える。

戦争も人類の資産を膨大に食い潰す。
兵器の開発にも国民の大量の税金を食い尽くす。

アイスランドに駐留していた米軍が撤退し、かの国は軍備を持たない唯一のNATO加盟国となる。
軍備を持たない国として国家予算を十分に活用できる。
今後の行く末を見守っていたい。

軍事予算がいかに無駄な出費であるか、北朝鮮が示している。
多くの国民が餓死するほどの貧困にあえいでいる中、軍備と核兵器の開発に膨大な国家予算を費やしている。
軍備すらもあまりにも旧弊化して殆ど役に立たない状況とか。
軍拡競争がいかに無駄に国民を収奪するかのいい例だ。

人間の欲望は限りないと思う。
自分自身に当てはめても良く分かる。
欲しいものへの欲望は限りなくエスカレートし、あらゆる手段を駆使して手に入れようとする。
そういった欲望は発展のエネルギーでもある。
それを前提にして欲望に一定の歯止めをかけて調整抑制するのが国家の役目かもしれない。

国と地方自治体は嘘と欺瞞を捨てて、早く本来の仕事をして欲しい。
国民に奉仕して欲しい。



ダンスパーティ

2006年11月09日 | Weblog
社交ダンスの教室のパーティがある。
私は別の用事で参加できないが、某夫妻がパーティでフォーメイションの踊りを披露する予定で、レッスンが終わってからも先生の指導で練習に励んでいた。
ところが、奥さんが足をくじいてしまい骨折、参加できなくなってしまった。

その夫妻は60代半ば、奥さんのドレスが少しきつめなので痩せなければと毎夜公園をせっせと散歩していたところ石につまずいてしまったらしい。

代わりに女先生がパートナーをつとめることになったという。
奥さんはさぞかし悔しい思いをしていることだろう。

しかし、私は「亭主、うっししと喜んでいるだろな」と思ってしまう。
実は、正直な話、大抵の男は女房と踊るのはあまり面白くない。
私も嫌いだ、女房は踊っている最中も口うるさい。
「殴ったろか」と思うこともある。