岩手県津波防災技術専門委員会(堺茂樹岩手大工学部長)は津波対策の防潮堤の高さを5段階に分けてこれからの整備目標として公表した(7/5、岩手日報)
全く馬鹿げている提案である。津波復興の全体像もはっきりしない現段階で、つまり津波対策に防潮堤が有効かどうか? 有効だったかどうか? の反省の途中の段階で、パブロフの犬の条件反射のようにまず防潮堤、次いで高さは?と発想してしまう情けないコンクリート村の懲りない委員たちである。まさに今回の災害ではその事が反省の対象であり、批判の対象、災害拡大の中心的理由であった。のに、無反省に再び「防潮堤」を持ち出している。
「5タイプ」などと独善的で勝手な設計まで踏み込んでいる。自然が5タイプで津波災害をひきおこすとだれが決めたのか?津波は相手を選ばないのだ。5タイプの防潮堤が出来上がったらだれでも気付くだろうがこう言うだろう。「おれの村のこのタイプに合わせて津波がほんとうに来てくれるのだろうか?」と。
たとえ防波堤や防潮堤が津波によって乗り越えられ破壊されたからといって問題は防潮堤の有無や強さや高さの問題ではなかったはずである。津波はそのような問題の立て方そのものを乗り越え破壊したのだ。被災者はその事をよく知っているが、盛岡の、ヤマゴの先生たちはそれを知らないようだ。またぞろ薄いアタマを突っ込んできたという印象だけ。おざなりで腹立たしい。
大津波は防災技術についてもさまざまな角度からの反省を突きつけたはずである。だから「私たちの委員会はこの分野が専門ですから…」などという言い訳は利かない。被害者の立場で、また広く市民の立場で、古い専門の立場は捨てる覚悟でやらないと間に合わないのだ。時間的に間に合わないというよりも災害の深刻さと広がりは君たちの今の頭脳では間に合わないような気がする。
まず第一に人命、防潮堤や防潮堤の高さでは人命は救えない。どんな施設でも、コンクリートの堤防でも鉄筋の建物でも津波から人命を守ることが出来ない。材質やノウハウをいくら議論しても無駄なことである。人工物では津波から人命は守れない。
人命は「避難」で守れるからコンクリートはいらない。否、わかるかどうか?人命はネガティブな避難でしか守れないのだ。地震即高所避難の徹底、避難訓練─等。君たち技術専門家たちの関連でいえばその事に資するコンクリート、そのノウハウを議論してもらいたいのだが…無理か?…。避難についてはこれからも長く考えなければならないからここではこれ以上書かない。また、人命以外の、建物や船や財産を守る防潮堤整備というのであれば、以上、わたしは少し失礼な言い方をしたかもしれない。5タイプであろうと、10タイプであろうと、ご自由に議論をつづけてください。
第二に、自然。いわゆる自然景観の自然。自然の地形と言ったらいいのか?平地や丘陵や沿岸。海や川や山や。そして土やドロや砂や礫石や岩などの地質。今回の巨大津波によって分かったことの一つはおおむね人工物は流れ去ったが自然は残ったということである。浄土ヶ浜は残った、蛸の浜も堤防やテトラは流れたが岩は頑丈であった。浜は波をかぶったが損傷したとはいえなかった。陸前高田は松並木が根こそぎ損傷したがそれをもって海岸自然が壊れたと言えるかどうか。いずれにしても津波に対して自然は強かった。ほとんど99%びくともしなかったのではないか! という印象。反対に人工物、堤防や防潮堤をはじめとして都市港湾、漁港の人工設備は全て損傷をうけたのでなかったか?
1)これまでコンクリート村の人々は、鉄骨だ、パイルだ、ケーソンだといってはコンクリートを大量に自然の中に流し込んできた。これこそが防災を妨げてきたのだ、わたしにいわせれば人的災害を呼び込む犯罪的行為であった。直接、陸地を崩したり、海を埋め立てたりする土木工事も同罪である。防災とは自然を守ることだと気付いてほしい。どれが、どの工事が自然を破壊して、どれが、どの工事が自然を傷つけないできたか、つぶさに反省的に検証することが委員会の当面の仕事ではないのか?その事をまずやれ、その事をまず県民に示すことが大事である。その後の展開はそれ次第であろう。
2)人工的に構築物を作って(防潮堤の発想も同じである)住民の居住空間として津波に備えることと、高台に住居を移すことは防災のまちづくりとしては自然観が基本的に異なるといえる。
第三に、岩手県沿岸の津波被災者の立場は、このような5段階プランとはどんな接点も持っていないように思えてならない。岩手県津波防災技術専門委員会(堺茂樹岩手大工学部長)はコンクリート村のコンクリート万能、専門ばか的な軽薄さを脱するべきである。かって20世紀または昭和の時代には最先端を走るエリートたちだったかもしれないが、時代は徐々に変わって、大震災はそのエリート観を劇的に変えた。単なる「コンクリート村」呼ばわりさえされている。
委員たちは古いエリートの衣を脱いで、そしてまず、技術の、大自然と避難との関係性をじっくりやるべきだ。このことは防災技術の倫理・哲学の復興と言ってもよい超最先端の事柄である。それなくして、コンクリートに未来はない。
上記新聞記事の全文↓
●防潮堤整備に5タイプ 県津波防災技術専門委
県津波防災技術専門委員会(委員長・堺茂樹岩手大工学部長)の第4回会合は4日、盛岡市内で開かれ、防潮堤など海岸保全施設の高さについて、過去(将来の想定も含む)に発生した津波を基に試算した5段階の整備目標を公表した。陸前高田市の高田地区海岸は、想定宮城県沖地震の津波以上を防ぐ防潮堤整備(タイプ〈2〉)が妥当と提言。県内の残る13カ所の海岸も整備目標を定める方針で、市町村が策定するまちづくり計画の参考に提供する。
整備目標は▽過去最大の津波を防ぐ▽過去2番目の津波を防ぐ▽既存の防潮堤などの計画高―を軸に、5段階で提示。維持管理費や費用対効果、まちづくりなどの実現可能性を考慮して各地域に合ったタイプを選定した。(2011/07/05)
下のような新聞記事もあった。同じようにおろかな面々であると思う。1/1000年とは?そして、論旨は見えず見えるのは同じコンクリート「整備が必要」の呪縛のみ。
●巨大津波向けの防波堤を
国土交通省の交通政策審議会(国交省の諮問機関)は7/6日、港湾分科会の防災部会を開き、東日本大震災を受けた津波対策の方針をまとめた。1000年に一度想定される巨大津波に対し、内地への浸水を全て防ぐ事は不可能でも、第1波で倒壊せず第2波以降も被害を軽減する防波堤整備が必要とした。(2011.7.7、日本経済新聞)