(図はweb岩手日報より引用 2011.5.5)
当ブログではこの岩手日報の地図にあるように建設された順番で「第一防潮堤」(赤)「第二防潮堤」(青)「第三防潮堤」(緑)の呼称を使う。一部マスコミなどでは沖からの津波のディフェンスラインの意味だろうか第二と第三防潮堤を「第1線堤」と呼び、第一防潮堤を「第2線堤」としている。当ブログでも以前はこっちの呼称にしていたが…。1、2、一、二順番が真逆になって煩わしく両方とも「海側の」「陸側の」と補ったりしている。どっちでもいいが分かるように書き、読んでほしいものだ。いや、やはり行政的に(?)呼称統一する方がよいはずだ…
●再び岡山県の岩清水氏の写真を借用する。
田老「第二防潮堤」
(2013.4.21撮影 ブログ<岩清水日記>「宮古市田老3」東北の旅56より)
第一防潮堤の真ん中に立って北を向き、右手に伸びる第二防潮堤を写している。第二防潮堤は長内川水門残骸を残して右側のクレーンのずっと奥まで跡形もなく破壊されている様子がうかがえる。
「この第二の防潮堤は、過去の教訓を見殺しにして築かれたものである。国家事業なのだから、せっかくの公共事業を一円でも多く使って町を潤そうと、その思惑ばかりが先に立ち、田老はなりふりかまわず突進した」(「大津波を生きる」より)。著者の高山氏はめずらしく厳しい言葉で書いている。過去の教訓とは「家を建ててはならない」という昔からの不文律や長内川を跨いで防潮堤が築かれた事などを指していると思われるが、何よりも現地を見て、第二防潮堤崩壊前後の惨状を目の当たりにして思わず強い本音が出たものと思う。
田老「第三防潮堤」
(2013.4.21撮影 ブログ<岩清水日記>「宮古市田老3」東北の旅56より)
岩清水氏は同じ場所から南方向に振り返って、同じように第一防潮堤から左手に伸びる第三防潮堤をカメラに収めている。その先には田老川水門が見える。 この防潮堤は壊れなかったが 由来には時期や利害など第二防潮堤と同様な諸問題を抱えているといえる。悲惨な
田老「第二防潮堤」、田老「第三防潮堤」の今
あるべき防潮堤はその高さや強さを超えてすべてに地区住民との合意形成が前提であるべきだといえる。今現在の田老地区の防潮堤の改修工事に合意形成があるといえるか? 役所まかせという言葉があるが、住民はそっちのけで役所からの役所まかせというべき現状である。
被災住民の住まいの問題は遅々として進んでいないが、防潮堤だけは「なりふり構わず突進」している。住まい政策の遅れも原因であるが、将来の田老地区のまちづくり、施設作り、景観作りに合意形成の政策を見いだせない住民の多くが、それが原因で、あるいは嫌気がさして、どんどんふるさとを後にしている。防潮堤に失望しているのではなく、再び第二、第三防潮堤と同じ発想で防潮堤が建設される事に我慢ができないのである。防災の主役は住民ではないのか、と…
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県土整備部の黄昏
越流を容認し、避難の備えを優先させた当時の第一防潮堤のコンセプトは今の岩手県県土整備部の発想にはない。公共事業の予算の力で津波を押さえ込もうとしているだけだ。反対に津波を押さえ込もうとして際限なく予算を要求し続けるつもりなのか? 愚かしい!
県土整備部は田老地区にかぎらず、3.11前、県沿岸全域で、釜石湾口防波堤、大船渡湾口防波堤をはじめとして、無謀な、検証されない工事を主導してきた。今次津波で破壊された施設を数えるべきである。そして今、まったく同じ発想で再び多くの沿岸施設に手をつけようとしている。公共工事の名の下でどんな失敗工事にも施工者、管理者への罰則規定がないからだ。進歩のないまま予算の許すままに、幼稚な独りよがりの工事を進めている。
[関連記事] 4、防潮堤は人の命を守れるのか? 工事の責任がない!
PS) 田老防潮堤の工期 (「大津波を生きる」より引用)
第一防潮堤 昭和9~32年度 24年間
第二防潮堤 昭和37~40年度 4年間
第三防潮堤 昭和48~53年度 6年間
※なんとしても第一防潮堤の工期の長さが気にかかる。どのようなプロセスだったのだろうか? 昭和8年の三陸大津波を含めて起工当時のドラマはよく知られているかもしれない、また世界大戦を挟んで事態は津波だけではなかったであろう、しかし25年四半世紀の工期はいかにも長い気がする。進んだ時期も停滞した時期も、よい事も悪い事も、本当の築城物語を知ってる人は…。それぞれがそれぞれのドラマをはらんでいるとはいえ第一防潮堤は格別であるように思われる。
[関連記事] リメンバー田老3.11 (その4)田老のジレンマ
(まとめ) につづく
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