A、宮古湾全体の問題 (…B、地区毎の問題)
津波の越流、市街地への浸水を容認する事
津波の市街地への浸入はあたり前な事である。だから高台への無条件避難という事が大事なのである。また「越流」についても、日常的に大波が岩場を越え、防波堤を越え、防波ブロックを越える事は見なれた光景である。それを防ぐ方法はない。津波の場合でも岸壁や防波堤や防潮堤の越流は容認せざるを得ない。地震や津波の大きさを予め決める事は出来ないからだ。津波の市中への侵入は防ぎようがない。それを防ぐ計画には無理がある。だから、越流、浸水を最小限にとどめる工夫と、被害の最小限化を工夫する事に考えを変えるところから始めなければならない。
だから津波防災の考え方の出発は次のような事である。
「今回の津波がもたらした浸水や物理的被害を基準にして、湾全体で、将来の、地区ごとの被害調整を行う事である。端的に言えば、今回の基準(被害)は受入れた上で、受入れた場合の(被害の最小限化の)津波対策を考える事である。言葉を変えれば、将来の津波もその浸水や被害の総量は今回と変わらないという事である。その上で対策を考え、配分を考えて行く」(当ブログ<宮古湾の新しい津波防災>2012.1.12)
(1図)宮古湾今次津波浸水図
図面はコンセプト図で、正確ではない。自分の貧しいデータで主観的に書いた。以下の図面も同じ──
(2図)防潮堤、水門建設後の湾奥への津波水量逓増図
それこそ10.4mの防潮堤に沿って水かさと勢いはどこに行くのか?
鍬ヶ崎防潮堤から閉伊川水門、以降の磯鶏、高浜、金浜の防潮堤に沿って津波は湾奥に向かうはずである。リアス式V字型の港湾の水かさは急激に増え、津軽石川水門を越えないはずはない。この図面にはその事を書き込んではいないが、直線的に湾奥に向かった津波は防潮堤を越えて(防潮堤や水門が壊れない事を前提に)おそらく津軽石川に沿って浸水は空前の規模で広がるだろう…
(3図)湾奥からのもどり波コンセプト図
1611年(慶長16年)の津波のときは蛸の浜を襲った波が山を越えて鍬ヶ崎の集落を一掃したと言われている。むかしから津波が話題になる度に鍬ヶ崎で語られている話であった。言い伝えによると「鍬ヶ崎では、蛸ノ浜を越えた波と、宮古湾をめぐって北進した激浪が激しくぶつかって、家屋を倒壊流失して、ほとんどの住み家と人畜を押し流したといわれる」(「宮古のあゆみ」宮古市 昭和49年刊)。このリアリティーにはしかし信ずべき迫真がある。
「宮古湾をめぐって北進した激浪」がこの図のいわゆる戻り波と思われる。